2011年8月21日日曜日

半世紀前からの話

半世紀も前の話。
最初に就職したのが和文タイプライターを製造している会社で組み立てをやっていた。ドリルで穴を開け、タップでねじを切り、やすりで削って組み立てて、出来上がるまで二日から三日かかった。

和文タイプライターは、当時は花形で公文書作成には欠かすことができないもので、ワープロが普及しても公文書作成には採用されず大分経ってからだったように記憶している。当時の花形でも今博物館に行ってもない代物ではないだろうか、念のためにインターネットで「菅沼タイプライター」と検索したら、創業者の名前もあり、これは「歴史が眠る多磨霊園」というブログを書いている方の中にあり、そこには創業者の経歴が乗っていて、私が辞めて間もなく亡くなっている。辞めてまもなく労働争議が起こり、会社は倒産した。その後どのようにして始めたかわからないが稲城の方で会社を興している。

検索の中で、日本タイプライター製であるが戸籍用で今も現役で使われているらしい。電子タイプとかになって当時のものと大分違うがそれでも大分古いものらしい。個人的に和文タイプライターの収集を趣味にしている方がご自分が収集したタイプライターをひっくり返して活字がばらばらになり、それを入れるのに3時間もかかった旨のブログを書いていて、その中に写真が載っていたのが近い形だった。超過去のものかなと思っていたがそうでもなく、それなりに何かの形で留めているのに驚く。

田舎に居たときには、屋根にアンテナを張り、スパイダーコイルを手作りで巻いて鉱石ラジオを作り新潟のNHK放送をかすかな声をイヤホンで聞いて喜んでいたいたり、真空管式のラジオもラジオ雑誌の中に図面入りの本を買ってきて、部品を集めて組み立てていた。あの時には電気屋さんに部品を置いていたなぁ。上京してからはもっぱら秋葉原通いで、エスカレートしてアンプなどを組み立てるようになった。あの当時はパイオニヤはスピーカーメーカーに過ぎなかった。その秋葉原に20年近く働くようになって、その不思議さを覚える。休みを取って、一人寮で窓が響くほどの音量でレコードを聞いていたら、事務所が工場を挟んで先にあるのに、部長がわざわざ来て、隣近所に迷惑だからと言われたこともあった。ある時オーディオメーカーの人に「音楽が好きと言っても低音が出るとか出ないとか、高音ののびがとか言っているだけ」と言われたことが印象に残っている。確か同じ「音楽」でも質も内容も違う。

あの当時テレビ放送が始まっていて、丁度社長が紫綬褒章を受けたので、その記念に食堂にテレビを備え付けてくれた。その年の慰安旅行のバスの中では最初から最後までコマーシャルソングばかりを歌われていたのが印象に残っている。テレビを見るだけでなく、そのテレビに興味を持って、あの当時テレビ学校が次々と生まれてきたので、そのひとつに通うようになって、そしてテレビの修理がしたくて会社を辞めた。会社を前に辞めた方の下宿に居候しての転進である。

当時、テレビは高価で一般には手が出なかった。メーカーが日本で販売する物とアメリカに輸出する物の価格の差額の大きさが問題になった頃でもある。そんな中で秋葉原のある会社が自前でテレビを製造して販売していた。テレビキットとしても売っているのを買ってきて、組み立てて月賦で販売している小さな会社で働くようになり、そこで組み立てと修理をするようになり、趣味が仕事になったようで楽しかった。その会社も輸出用のアンプを造るようになり、そちらにも興味あったが、お客さんのアフターがあるので、それを引き継いでくれた方のところで働くようになる。そこもある店の修理を受けていて、そこはメーカー品だから修理が簡単だった。組み立て品は回路がはしょっているからとんでもないところに故障の箇所があった。

修理を受けていただけだったが事情があって社員となって働くようになる。その店は、ナショナルバンクをお客としていたので、仕事がしやすかった。店の主人が亡くなって、店に卸していた会社が秋葉原に販売店を持っていたので私一人引継ぎで移ることになり、そこで20年近く過ごすことになる。時々テレビのニュースの中で建物の外形が映し出されるとあの中を歩き回っていたなぁと懐かしく思い出す。職員でも行けないところを仕事の特権で出入りしていたのではないだろうか。ある時は、地下で銀行に貸し出す何々銀行何十億というパレットに積まれた現物の間を出入りしたときがあった。テレビのセッテングでこれがバンカーの最終目的かと「総裁」の椅子に座り心地はよくなかったが座った。

今天下りが問題になっているがあそこもそうで、ある短資会社ではトップが天下りの人ばかりだから生え抜きはトップになれないと言われていた。お陰で、トップは勿論、定年で主要なポストについている方がお客さんで仕事ができたから感謝している。あの当時は短資会社は三つしかなかったが今はひとつになっているのではないだろうか。なんとかフォレックスとテレビの画面で見るとここも懐かしい。何を書きたかったのだろう。