2011年8月27日土曜日

曖昧を旨として

よくアクセスするブログに「規格外クリスチャン・・・」とサブタイトルをつけているブログがある。なんとなくわかる反面、規格外ってあるのかな?という疑問がある。まぁクリスチャンという名前は広義で見るか狭義で見るかで変わるであろう。しかし、規格外ということはその対極にある規格外でないものがあることを教えている。

「隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン」(小岸 昭著)の中に元長崎市長の本島等氏のことが書かれている。「天皇の戦争責任はあると思います」発言で物議をかもし、そのことで銃で撃たれたが幸い命を落とすことはなかった。私の知識もこのくらいのものだったが、この方は隠れキリシタンの家柄で生まれ、おじいさんは明治政府のキリシタン弾圧の拷問で折られた脚を生涯引きずっていたそうだ。日本人は広島、長崎の原爆投下に対して被害者意識はあるが大戦での加害者意識が欠落していることを指摘されている。自虐史観と批判される人も居るだろうがこれも事実である。

自分も含めて人は被害者意識はあっても加害者意識は希薄である。あるいは被害者意識のみの人も少なくない。自虐的でもいけないが被害者意識の強い人よりも、物事がより客観的に見れるのではないだろうか。そのような立場で見ているからそうなるともいえる。どちらにしても何かを守ろうとすると客観的な見方はできなくなる。それはどこでも見られる。キリスト教会とて同じことが言える。

客観的な見方は他者の立場に立って見る事ができるのではないだろうか。先に何かを是とするとき、それが欠落する。本島氏を襲った人もそうだろう。本島氏はそのために命の危険に晒された。ある意味で命がけのことなのだろうと思う。傍観者的生き方の人間としては・・・。

傍観者的生き方とすれば、天皇の戦争責任問題もそうかもしれない。菊のタブーで沈黙していても、この大戦は天皇が意図したことでなかったとは故、天皇の名のもとで 諸々のことが行われてきた。そのことを声を大にしていう人は少ない。言えばいいかというものでもないし、かといってみんなわかっていることを沈黙することもなんだと思うが国民から尊敬されているからなお難しい。色々というほど知っているわけではないが見ていると責任の所在が曖昧になっているのを見る。だから取りようがないともいえる。この曖昧とした生き方は問題が出ると誰も責任が取れないようになっている。しかし権力を持つ者は上から下までその笠を行使する。そして責任を取る段になると・・・。そういう構図だ。曖昧を旨としてきた日本は、今問われているのかもしれない。政治の先送りもそんなところにあるのかな。