2011年9月2日金曜日

隠れキリシタン

小岸昭氏の著作の中にスペインやポルトガルでのユダヤ人がキリスト教に改宗させられ、それを拒んだ人たちは国外に追われた様子が書かれている。また、国内に残った改宗者たちも絶えず異端尋問の恐れの中にあった。言うなれば踏み絵をさせられた隠れキリシタンのようである。金曜日に身を清めたとか豚の肉を食べないとかユダヤ教に関連ある疑いをかけらたら弁解の余地がないようだ。たとえしたとしても告発者の言葉の方がそれが偽りでも絶対のようである。そしてその結果は火あぶりの刑と聞くとぞっとする。ここにカトリックの自らを絶対視し、裁かれるべき者が裁く側に回った者の姿を見る思いがする。実際やったのは国王であり女王であってもそれを許したことは同罪だと思う。ここに罪の罪たる所以があるような気がする。フランシスコ・ザビエルも直接加担していないようだけど知っていたであろうと記されていた。カトリックを非難するつもりはないが神の名の下でこのようなことが果たして許されるのだろうかと思った。

隠れキリシタンのことを思うと「青銅の基督」を思い出す。色々な思惑が交差していて考えさせられる。たかが青銅のマリア像?を踏むことにどれだけの罪があるのだろうか。殉教者が本当に殉教者であるのか フッと疑問に思うことがある。転びバテレンと言われる人たちに、信仰を捨てたのではなく継続したのではないかなと小岸氏はそのようなことを指摘されていた。

隠れキリシタンはキリスト教徒からはキリスト者として受け入れてもらえないほど変質したものになっている。キリスト者は、これをどのように捉えるのだろうか。私にはわからないが彼らの姿が変質した度合いが大きければ大きいほど彼らの苦しみが大きかったのではないだろうか。もしかしたら苦しみ続けるよりも殉教する方がある意味で楽であったかもしれない。わたしはその苦しみをイエスは担ってくれたのではないかと思ったりする。教会に集いえることは感謝であって、当然でも義務でもない。それは救いにとって大きいことでもない。十字架は小さくない。隠れキリシタンの苦しみを共有できなくともその苦しみの思いを共有したいものである。キリストの道は王道の道ではない。