2011年9月10日土曜日

聖書雑感

以前に「日本人の常識は世界の非常識」という言葉は流行ったことがあった。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉もある。若いときに観た「大いなる西部」の中に、広大な西部を自慢するかのように牧童頭のチャールトン・ヘストンか「西部は広いだろう」と言うと、グレゴリー・ペックはこともなげに「海はもっと広い」と言う会話をも思い出す。私の知っている世界は「井の中のかわず」だが、博学であっても神の前には似たり寄ったりだろうなと思うことがある。自分を是とするのではなく、それだけ神の領域は広いものだと言いたいのだ。しかし、「百聞は一見にしかず」と言う言葉もある経験も大切なことであろうことはよくわかる。

そういう意味では罪のない世界も罪のある世界も知っているアダムとエバはすごいなぁと思ったりすることがある。彼らとは罪の世界は共有できるが罪のない世界は共有できない。想像すらできない。想像できたとしても罪のある世界から想像するものは如何に歪んだものであるかがよくわかる。まさに「的をはずし」たものであろう。約束された「新しい天と新しい地」これはどんなものだろうか、かつて罪のなかった世界とはまた違ったものであろうとは思うが、そうしたら罪のなかったこの天地は知ることができないのだろうか、となると残念だ。

共観福音書にイエス・キリストがバプテスマの後に試みられる三つの出来事が記されている。マルコは三つの出来事を省略しているが「野の獣とともにおられた」ことを書かれている。人間より下等と思われている動物であっても人間より優れた能力を持っていることが言われているから、その辺のことを示唆しているのか、本当に危険の中に身を置かれたのかわからない。御使えたちが仕えたと書いてあるから危険はなかったろうと思うが?

パウロはロマ7章で自分の葛藤を書いている(これは全ての人の葛藤でもあるが)。私は「成すべき善を成す力はなく、成したくない悪を成してしまう」者である。イエス・キリストの荒野での試みを思うとこの言葉を思い出す。同じようにではなく、全く逆でないかなと思っている。私が罪を犯さないでいることは難しいことであるように、逆にイエス・キリストが罪を犯すことは非常に難しい。難しさは同じでも全く逆なのである。自分の視点から見れば大変な試練だと思う。しかしその大変と思うことは罪を犯さないという難しさであって、イエス・キリストにとっての難しさは罪を犯すことの難しさのような気がする。同じ視点、同じ目線も大切だが違った視点、目線から見ることも大切であることを教えてくれる。具体的なアクションまでもいくかはわからないが。