2011年9月17日土曜日

キリストの危機

2ヶ月位前からキャンベルモルガンの「キリストの危機」という本をパソコンに入れている。目でゆっくり追いながらであるから遅々たるものである。以前にも書いたが、ブラインドタッチとゆっくり読むから頭に入るかなとの思いでやっている。しかし、最初にやった「組織神学」のときは全くといっていいほど頭に入らなかった。今回はそれほどでもない。イエス・キリストの受肉からバプテスマ、今は誘惑の最後の方である。時より頷きながらの作業ができるからよかったと思っている。次に変貌、十字架と続くが、別にもう一度、最初からノートをとりながら纏めてみようと思っている。元々学問とは縁のない人間だったから頭を使うのは一番苦手である。暑いところで汗を流すのが性に合っている。その汗を流すのも先日、隠居家の雑草を刈ってジ・エンド。

ようやく時間ができたかなと思えば、覚えることには「縁遠い」年代になってしまった。どれだけ益になるのかわからないから、まともなクリスチャンが見たら阿保かと思われることを懲りずにやっている。それでもできることに感謝している。信仰者としても自他共に認めるオシャカタイプだからできるのかもしれない。まともな信仰者はこんなことはやらないだろう。以前に、メッセージでヤコブ1:22-24から褒められない信仰者として聞かされて、反発を感じたことがあった。自分がその自覚があるから反発したのかもしれない。

学問から縁遠い者だからかもしれないが、新約聖書がギリシャ語で書かれていることは、ヘブルとギリシャでは思想的には大きな隔たりがあるのだろうから、それをどのように埋めているのだろうかと思うときがある。イエス・キリストの使信はしっかり伝わってきたのだろうか。大雑把であるがキリスト教の歴史を見ると何かその意を汲んでいなくて、ギリシャ的なものが入っているために間違った方向に行っているのではないだろうかと思うことがある。単純に読んでいると福音書とパウロ書簡に何か違うものがあるような気がする。また教会の姿と聖書の使信にもどこか違和感を感じるように思う。オシャカ的な人間が信仰の面でもそれが出ているのかなと思えば、それほどでもないが。しかし、真っ当な信仰者を自認している人を羨ましいとも思わない。

「キリストの危機」ではなく、「わが信仰の危機」である。だからキリストのキリストたる姿を書かれたこの本をやることは、わたしにとってはとてもいい示唆になるのだろうと思っている。でもどれだけものになることができるか?しかし、相変わらずの千鳥指ではあるがブラインドタッチは間違いなく上達している。これだけでもと思うのは悲しい。