2011年10月25日火曜日

聞くと言う事

中川健一さんの10月21日のメルマガに「聞くという奉仕」という 題で書かれている。
「被災地では、「聞くという奉仕」の必要性が高まっていると伝え聞く。自分の痛みや苦しみを、誰かに聞いてほしい。そういう思いを持っている人は多いと思う。」
そして、柏木哲夫さんの本の中より、失敗談として退院する患者さんに「何がつらかったか」との問いに「先生が頑張れと言われたことがつらかったと聞かされてショックを受けた」ことを紹介していた。

「この逸話は、私にとっても教訓となった。思えば、私たちは『いかに語るか』という訓練を受けていても、『いかに聴くか』という訓練は受けていないことが多い。」とも書いておられる。そして、友人と会食の中で、「その食事の席で、矢吹氏が10月下旬に東日本大震災の被災地を訪問し、、『耳を傾けるという奉仕』というテーマで講演されるとお聞きした。興味を持った私は、即座に、ハーベスト聖書塾公開講座でも同じ内容の講演をしていただきたいとお願いした。氏は快諾してくださった。このテーマは、今の私たちが最も必要としているものだと確信する。」

 第4回 聖書塾公開講座  「耳を傾けるという奉仕」


日時:2011年10月30日(日) 17:30~19:00  会場:JELA(恵比寿)


興味はあるが遠いので聞きに行けないがそのうちCD化かHPに載るだろうそのときを楽しみにしている。

最近の一日は、本を読んだり、PCにキャンベルモルガンの「キリストの危機」を入力している。前にも書いたがブラインドタッチの練習とゆっくり読むことによって理解が増すのではないかとの思いでやっている。しかし、どちらもそれほどはかばかしくはいっていない。指の運びはその日によって、間違いも少なく運ぶ時と全くふらつく時とがあり、微々たる進展かなと自分に納得させている。内容は教えられる事と難しいときの半々である。それと訳文がわかりづらいなと思う事があり、ひとりの役者のはずなのに章によって、文章が微妙に違っている事に気がつくし、誤字があったりするの発見もある。教えられてもどんどん忘れる(頭にはしっかり入っているが思い出せないだけである。だからいつかどこで出てくるだろうと、しかし、期待していない)。若い学生でも先生の授業は全部理解し、記憶している事はないだろうとおもうから、これはこれでいいと納得させている。

PCの打ち込みはそんなに進まないから、歩く事とか、自転車でとの思いもながらも、ついPCに向かう時間が長くなってしまう。それに、身につく度合いの薄さとその意味を考えると「徒労」という言葉が思い浮かぶ。ハムスターがリングの中で手足を動かしているような空しさを覚えないわけでもない。好きな事をやっているのだが充実感は少ない。

そんな心境の中でこのメルマガを読んで、ひとつ思った事があった。それは、こちらでは、短い会話を交わす事があっても、ゆっくりお茶を飲んでとかそんな時間は皆無に近い。前向きな会話でなくても、愚痴を聞くと言う事もない。前の集会では、日曜日は、午前、午後と集会漬けだから何らかの交わりがある(割と苦手としていたが)。夜の集会などは人が少ないから逆に個人的な話をする事ができた。こちらに来て、それがないのである。それに、前の集会では、限られたお年寄りではあったが、苦情の聞き役だった。些細な事などが多かったから笑いながら聞くことが多かった。軽井沢のシニアキャンプで会った彼女たちは少し変わってきていて話す内容も違っていた。もう苦情の聞き役はあまり必要でなくなったようだ。彼女たちの苦情を聞くと言う事も彼女たちのためにもなっただろうが結構これが自分を必要としているという気持ちがどこかにあって、それが自分を支えてくれたのかなと思った。人はどこかで必要とされていると言う事を確認できないと立っている事は難しい。人はどこで助けられるかわからないものである。