2011年12月20日火曜日

クリスマスに思う

サルはノンクリの時、周りがクリスマスだといって、ドンちゃん騒ぎをしていても俺はキリスト教徒ではないからと全く関心がなかった。キリスト者になってもノンクリが祝っているクリスマスと一緒にできるかとこれも無関心だった。それから大分経ってから、クリスチャンが世の中で行っているクリスマスに対して批判しているのを見て、主(ヌシ)のいないクリスマスでもクリスマスを祝っている事はいいじゃないかと思うようになった。なぜなら、わたしの小さいときは、ド田舎に住んでいたからクリスマスもサンタクロースも知らなかった。どういう形であれクリスマスという言葉があふれるだけでもいいではないかと、そうしたら実はこうですよと言えばよいと思っている。要するにへそ曲がりなのである。

上沼先生が先日の神学モノローグで「パウロの観たクリスマス」という題で書いておられた。奥様のご両親の住まいの近くでの街路樹のイルミネーションや家々のデコレーション、教会のクリスマスコンサートなどを観て、年とともにパウロのユダヤ性を考えるようになって、このようなクリスマスをパウロが観たらどう思うだろうかと問いかけていた。

最後に、「2千年の西洋の教会で捉えられてきたものが主導になって、 その上で聖書を見ていく。それが聖書のすべてだと思ってしまう。 避けられないと言えば避けられない。それでも、そうでない面がある。教会があまりにも西洋的な思考に動かされてきたためなのではないだろうか。聖書のなかのユダヤ的な面を真剣に捉えたら見落としてきたものが多くあることに気づく。」と締めくくっている。

サルはブラザレンというグループで生まれ育ってきたものであるからかそれがよくわかる。大切なものとして教えられてきたものが先人達の習慣に過ぎないものもあったりで、何これと思わされた事が幾つかあった。今も後生大事に守っているのを見ると、本人がそれを大切にしている事は尊重するが、それを人に押し付けるなと思う事がある。

世の中、制度疲労しているとよく言われている。キリスト教会も然りかなと思ったりするがどうなのだろう。今あるものを当然のように受け止めている事は、もしかしたら違ったものではとの「?」を持つことも大切ではないだろうか。なんでもかんでも「?」はいけないが。