2011年12月26日月曜日

クリスマスが過ぎて

クリスマスイブもクリスマスも過ぎてしまった。相変わらず何をするでもなかった。意図的ではなくジ間的にである。ノンクリスチャンが「メリークリスマス」と言ったからといって文句を言うつもりもないし結構なことだと思っている。洋菓子屋さんのデコレーションケーキのショーケースの前の人だかりを見て、違う家族が同じ人の誕生を祝うとしているのかと単純に喜ぼうとしている。現実は親は子供たちが喜ぶ顔を子供たちはケーキを食べれるうれしさの故であろうことは良くわかる。

イエス・キリストの誕生を単純に喜べない一つに。神が人とならなければならないこと、受胎したときから人としてのいのちの危険にさらされていなければならないこと。サルのように何とかなるさと適当に生きて、何ともならない生き方とは違うのである。私にとって最も大きいイエス像はイザヤ書53章のイエス像である。個人的にはこれが愛の凝縮した姿かなと思っている。愛は複雑だ。能力によって価値を見出すのなら楽である。必要か必要でないか役に立つか立たないかだけでよい。しかし、存在しているから価値があるというのはある面で厳しい。人間にはそんな価値観はないように思う。あるとすれば親が子に対する思いがそれに近いのだろうか。サルには希薄である。サルにとって救われることよりもこのキリストと一体になれたらなぁと思っている。無理な相談であることは百も承知している。否、無理と言うよりその対極にいる。でもクリスマスを機会にこのことを考えてみたい。進展はないであろうが。


私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。


まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。



彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。



しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。  イザヤ書53章