2012年1月13日金曜日

集会は”ブレズレン”か?

いつもアクセスしているブログに上記の本があったので興味を持ち、ついでにパンフレットの「どの教会に集うべきでしょうか?」もいっしょに出版元に注文をする。あめんどうさんから本の案内のはがきを頂いてそのままになっていたのを丁度注文しながらサルの無定見さに自分であきれているがこれが我が本質なのである。

ブラザレンに生まれ育った者として、信仰のカルチャーショック?を与えたナウエン、どちらも興味がある。ナウエンのは後に読むことにして早速薄いページのを読ませてもらった。どちらも頷けて読めたが教会あるいはブラザレンのことばに拘っているんだなと、普遍的教会は完璧だが地域教会は不完全なものだと思っている。よりみことばに忠実にとの思いは良くわかるが完璧はありえない。どこか欠けるものがあって当然、それを受け入れる事が必要ではないだろうかと思った。ちょっと大雑把かな?

「大事なことは、聖書の教えのとおりに集まっていると確信できるところに集うことです。・・・今日、多くの教会(集会)があるなか、集うべき教会(集会)を探し求めるうえで最も大事なことは、神のみことばによって導かれることです。・・・新約聖書に目を留め、そこに記されている原則や模範に従っているところを捜し、確信できるところに集ってください。」(どの教会に集うべきでしょうか?)とあったがこのような選択ができるのは聖書の知識においても信仰のありようにおいても成熟したキリスト者でなければできないのではないだろうか。そのような信者だと問題点も見えてしまうかもしれないなぁ。となると地上で普遍的な教会を探さないとと思うがどうだろう。これは批判としてではなく、実際問題として不可能ではと思った。勿論サルの信仰の基準だから低い低いレベルでの話。

ブラザレンで生まれ育った者であるがサルの集っている教会がブラザレンであることを知ったのは大分経ってからだった。断片的にではなるがブラザレンのことを知ってくると歴史の流れの中での必然性を感じ、この先にはまた新たなものができてくるのではないだろうかと思ったりしている。分裂していたものが統合に向うかもしれない。イエス・キリストの下で一つになるのであるが。

分派とか宗派のことばに拘るのだろうか。「キリスト者」の名前も最初は侮蔑的な意図を含んでいたようである。「ブレズレン」の流れでもそれほど拘ることはないのではないだろうと思うがどうだろう。東京の王子にある専門学校が学校の案内に田中角栄が出身の学校ということで彼が名誉校長とパンフレットに載せていた。ところが田中が問題を起こしたらすぐ我校とは関系ありませんと但し書きが出た。問題あるからとこうもあっさり引っ込めるのには驚いた。卒業生である事には間違いないしそこまでと思ったが世の中ってこんなものなんだなぁと変なところで納得したことを思い出した。諸集会というのもそうなのだろうか。大分端っこのほうにあるのだが事実ブラサレンの流れの中にあるし、卑下も驕りもない。問題点も幾つか見えるがそれを問題にするつもりもない。なぜならどこかに欠けたものがあるからである。黙示録にある七つの教会が今日もあるということだ。「我教会はスミルナやフィラデルフィアの教会のようです」と自信をもって言える教会はあったらすごい。その自信は敬服に価する。知りたいとは思わないが。