2012年1月18日水曜日

本間俊平

今、村上弘明主演で「大地の詩」―留岡幸助物語―が上映されている。公開は東京中心であるが地方でも公開されているようだ。一般の映画館ではなく、会館とかホールなどで上映している。サルも「筆子、その愛」は、中野のZEROホールで観た。会社が中野区にある所為かここでの上映が多い。信州では公開しないだろうから2月にお茶の水で上映するから上京して観てみたいなぁと思っている。東京も久しぶりなので寄りたい所もあるしと思っているがどうなるか。

この映画を製作したのは現代ぷろだくしょんで既に常盤貴子主演の「筆子、その愛」―天使のピアノ―で日本初の知的障害者施設を夫亮一と共に創設した石井筆子の物語を製作している。その前には松平健主演で「石井のお父さんありがとう」―岡山孤児院-石井十次の生涯―が製作されている。「筆子その愛」を中野ZEROホールで観たときに「石井のお父さんありがとう」のDVDが販売していたので買って観た。キリスト者として名前くらいは知っていたが映画を観て、世の中で取残されているような彼らに目を向けた働きの大きさを教えられた。少年の感化事業や障害児、孤児たちに目を向けて先駆的働きをした人を取り上げている監督でプロデューサーの山田火砂子さんはキリスト者?有名な役者を使っているが、儲かるような映画ではないようだし、ZEROでは切符切りをしていた。それに身体が少し不自由そうなおばぁちゃんという雰囲気だったからどこからあんなエネルギーがとその時に思った。

明治、大正、昭和の初期の時代に活躍したキリスト者となると内村鑑三、新渡戸稲造はよく知られている。しかし、社会活動をされたキリスト者となるとクリスチャンでも良く知っていないのではないだろうか。救世軍の山室軍平、賀川豊彦、田中正造などはどうだろう。若い時に救世軍で働いていた姉妹を知っている。彼女に言わせるとこんな信仰生活でいいのかしらと集会に集うようになったときに思ったと云っていた。まず実践があるらしい。救世軍の廃娼運動は有名である。日本より外国で良く知られているといわれる賀川豊彦、彼の理念が今日のユーロの理念の根底にあると知って驚いた。最初に協同組合や労働組合を作り指導した人だと聞いている。足尾鉱山の鉱毒問題で生涯を奉げた田中正造。集会関係を見ていると内村とかその弟子といわれる矢内原忠雄などの名前は聞くが社会活動家の名前は皆無に近いような気がする。集会に限らず教会も然りなのだろうか。神学的なものがより重要であるだろうからなぁ。サルはこれくらいしか知らないが社会の各方面で大きな働きをしているキリスト者は大勢いるのだろう。老害と叫ばれている方もいるようだが。

若い時にサルがキリスト者だと知って、「本間俊平の生涯」(三吉明著)という本をある方がくれた。製本もしっかりしたものではなかったがサルにとってインパクトのある本だった。著者は以前に「本間俊平伝」を著していて、あとがきに「本間俊平は色々な意味で、もう一度味わってみなければならない、いわば大切な人物である、と私は思っている。」、そして「特に青少年問題や、 非行児の問題を扱う人たちに噛みしめて味わっていただきたいとの願いから、・・・全く想を新たにして、決定版のつもりで書き改めた」と書いている。年代は昭和41年6月のもの、半世紀近く経っているから今はどうなのだろうか。

明治6年に生まれて、昭和23年に75才で亡くなっている。23歳の時にキリスト教に導かれ、24年に留岡幸助から麻布の霊南坂教会で受洗している。一介の大工であったがこのとき既に留岡幸助の影響か出獄者を引き取り世話をしている。大工であったが東宮御所造営にかかわる頃には石工や職人を纏める立場にあったようである。造営のため大理石が必要なためにその一つとして秋吉台に赴くが結果は否だった。しかし、そのことが縁で大理石採掘をするようになった。そこで出獄者、非行少年を預かるようになる。秋吉台で本格的に採掘したのはこの人らしい。建物のみならず電機の配電盤にも外国製から国内産に移行する中で使われるようになり、大メーカーと取引をするようになった。

安川電機の創業者である安川第五郎が創業間もない頃、八幡製鉄所の鉄鉱石の売買交渉のために来日していた李氏に付近に大理石採掘があるなら見たいというので、取引のある本間大理石採掘所に案内した。「・・・主人らしい一老人が応接し、自分で採掘の現場と加工工場(工場というより掘っ立て小屋)を詳細に案内しつつ説明され、李氏も大いに得る所があったらしい。・・・ホテルで李氏と夕食を共にしながら本間という人は如何なる経歴の人物だろうか、普通の石屋とは大分違う感がすると語り合ったが、私も前もって先生の経歴を識らずに只取引関係だけでお訪ねした事でもあり、その時は李氏に一切説明する事は出来ずにすんだ。この事があって間もなく、左手に聖書を右手にハンマーを振り、大理石採掘事業を通して若い前科者や迷える青年を導いておれるのだと聞いて、初めて我々の疑問が解けたのであった。」と書いている。一介の取引業に過ぎない本間俊平を先生と呼び、自ら本間宗の信者と自認している。

本間俊平は事業よりも大理石採掘を通して、出獄人や問題を抱えた青少年が更正するのが目的であった。このような時に師範学校の先生が研修のような形で来ていたようである。そしてその教え子が修養生として来るようになった。先生から影響を受けたひとりに玉川学園を創立した小原國芳がいる。彼は自分の全集48巻の中に11番目に「秋吉台の聖者本間先生・玉川塾の教育」を入れている。思い入れがいかに強いかを教えられる。

小原國芳は招かれて成城小学校の主事になる。今の成城学園のところではない。牛込といって今の早稲田大学の近くにある私立の学校である。小原國芳は今の成城学園や玉川学園の成り立ちをこのように書いている。
「・・・牛込のお化け屋敷そのままの古校舎の中のお正月の式をすませ、子供たちに配った蜜柑の余りや、するめをかじりながら、夢の学校は次から次へと展開していきました。
『ああ、金がほしいなァ』腹のドン底から、うなると、
『先生、ゼヒ、本間先生に貰いにいってよ!』と皆が言い出す。・・・
『だが、おい、出掛ける旅費がないのだ』というと、誰いうとなしに、年越しの財布を開いては、ありったけの金を一円、二円と皆が出す。十一円何がしが集まったのです。それで、とうとう終列車で西へ立ちました。」と、これでは足らないので徳山にいる奥さんのお父さんに電報で金の工面を依頼して、牧師をしているお父さんが献金の中から大切に取ってあった五十銭銀貨を紙に包んで渡してくれた。婿がかわいいのか娘がかわいいのかと書いている。

秋吉に着くと「『忙しいあなたが、新年早々何の用事じゃ』
『先生、金貰いにきました』
『金貰いに?素寒貧のワシじゃ、金は一文もない。一体、何するんじゃ』
『どうしても、もう高等学校を作らねばなりませぬ、何処からか貰ってください!』
『一体、いくら要るのじゃ。むう、二百万!そうだろうね。○○のおばあさんがね、女の身で何千万と儲けたものだ。神様の御用に貰ってくれろって、その一割、ちょうど二百万円、持って来たものじゃ。俺には神様が下さるから要らぬといってつき返したものだ。その後、いろんな人がそのお金を貰ってくれといってきるが、二三遍、かけ合って見たが、遺言状がないといって、物にならぬのだ。・・・帰りに会って見たまえ、電報打ってあげる。当主に当たる前には大事な人が居る。××××(ヴォーリス)という西洋人じゃ。一つ会って見たまえ。』と早速、長文の電報を打ってくださる。」

そうして数分間腕組されながら、
「『む、そうだ。十哩、郊外に出ろ。まだ武蔵野は広い。安いはずだ。学校を作ったら、あたりが騰貴する。そして、土地を半分売るんだ。コロンビア大だって、そうだった。福岡の安川さんの学園だってそうだ。』・・・
『成程』ピリッと来ましたが、只一つ困った事には、小学一年生から350名の子供をどうして十哩通学させよう!
『先生、小学一年生の子供たちをどうしましょう。』と失望の問いを発すれば、
『馬鹿いえ!お前がいい学校を作れば交通は必ずついてくる。交通のついて来ないような学校ならツブレちまえ!』
何という天来の響きでしょう。・・・
『そうだ!交通のついて来るような学校を、おれはキット作るんだ。つくらねばならないんだ。』
その瞬間、トテモ大きな精神的飛躍と大覚悟た湧きました。・・・」

東京の地図を広げて、
「『東北本線の方はだめ、北には人は行かなぬ。千葉の方はダメだ。本所、深川を通るのが汚い。中央線はもう八王子で行き詰まりだ。そうだ、やはり相模の平野じゃ。東京から横浜、小田原とズーっと東海道線は弓なりに曲ッとる。キッと、新宿から小田原へ一直線に将来、汽車ができるに違いない。この方向だと、』小田急電車が現在通っているそのままに指で線を引かれる。」

事実、当時は経堂までしか小田急は来ていなかった。成城学園は更に三つ先である。そして成城学園は高台にあり、後に東宝が買いに来たそうだ。坂の下に東宝のスタジオがあった。玉川学園もそうである。売った土地は今はどちらも高級住宅のイメージがある。それに玉川学園の駅前にはパチンコ屋はない。風致地区になっている。成城学園はどうだろう?隣の駅にはあるが成城では見かけないが。

大倉喜八郎が「はじめは本間君と呼んだ。何時とはなしに本間さんと呼ぶようになった。然るに今日では本間先生といわねば相応しくない気持ちになった。」と述懐かいしている。
森鴎外は大正2年の中央公論に「槌の一下」という題で本間俊平のことを書いている。鴎外は本間俊平の伝記を書きたいと願っていたそうだが書くことが出来なかった。
徳富蘆花は「石工に化けた英霊が、大理石を採掘しつつふれあふ人の心の衷に、神を喚び醒ましつつある。」と、まさに聖書のことばを実践した人であり、接するひとりひとりに心を注いだ人である。

「戦争末期からかけての毀誉褒貶は少なくない。しかし、克く彼の時代と、先生の育った温床を見ねばならぬ。忠君愛国孝道の中に生育し、自ら無学と称しているが、一度キリストによって贖われた体験の宗教は、実は自分としては良く知りぬいて、よく利用されることも知りぬいていたのである。勇敢にして何の弁明もせず正しいと信ずる道を歩んだのである」と遊佐俊彦は書いている。
内村鑑三や矢内原忠雄は後世にまで残るであろうがこのような人は過去の人間として、あるいは福音から外れた人として忘れ去れるであろう。しかし彼の最後のメッセージの聖書のことばは、自分にも語るかのように「この時イエスは教えて宣べはじめて言ひ給ふ。なんぢら悔い改めよ、天国は近づきたり。」(マタイ伝四章十七節)と。