2012年2月3日金曜日

苦しみを通して神に近づく

上沼先生の著書の題名をそのまま題名に書いている。
実はこの間上京した時にK姉妹と交わって、その後メールをいただいた。その中で集会に見えてない三人の姉妹とコンタクトをとっていて年明けてからようやくコンタクが取れるようになったとあった。三人とも気になっている姉妹たちだからとてもうれしかった。その中のひとりはサルがいるときすでに集会に集っていなかった。もうひとりは集会で下さった兄姉の書き込みに「また変人がひとり居なくなってさびしい」と変人では互角の勝負をしている姉妹である。あとの一人は住まいが遠いのと仕事が忙しいので日曜日に集うのは大変かなと思っていた。勿論それだけではないとは思っている。そんなことで何か姉妹たちに適当な本を探してみると返事を書いて、頭に浮かんでいたのが上沼先生の上記に記した本で、三部作の一番目の本である。

前にも書いたが教会はある人にとってはすこぶる居心地のいいところである。まさに週に一回の至福の場所である。そういう人が居るということは、逆にある人にとってはすこぶる居心地の悪いところでもあるということだ。意心地のいい人にとってはそれはそれで感謝すべきことであるがそこに問題はないわけではないであろうと思う時がある。それが何であるかはわからない。ただなんとなくそう思うのである。集いにくい人が居るということが何かを語っているような気がしないでもない。

ハーベスト・タイムで中川先生はメルマガでこのようなことを書いていた。「西洋の神学には、ある盲点がある。それは、「苦難の意味の喪失」である。それは恐らく、物質主義や成功哲学の影響を受けた結果起こっている現象だと思われる。しかし、苦難は神の計画の一部である。苦難や試練は、私たちの品性を練り、私たちを完成へと導く力となる。試練の中での霊的覚醒(目覚め)は、神の特別な祝福である。」。神学はわからないが言っていることはなんとなくわかる。これはサルの憶測だが教会は良いことは前面に出すが負的はものはあまり出さない。というより避けている。そして優等生の信者を育てようとしている。だからある枠からはみ出る人はスポイルするしかない。著者は詩篇77年をベースに書いておられる。77編の一節にある「私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。」の言葉を引用して叫ぶことの大切さを書いておられる。


教会員は優等生でないといけないけれどキリスト者は劣等性であることが大切であると思っている。根拠はない。しかし、ルカの福音書の15章の二人の兄弟の姿を見ていると悔い改めやすいのは劣等性の弟であり、優等生の兄は難しいというよりできない現実を示しているようである。次の日曜日に話をするのだが話は苦手なのでこんなことで話の準備をしながら気を紛らわしている。