2012年2月11日土曜日

時代の流れ

パナソニックがVHSのビデオレコーダーの生産を終了したことがネットのニュースに出ていた。いつか来るであろうと思っていたがついにの感がする。今、電気店で売っているビデオカメラは手のひらサイズになっている。サルが売っていた頃はあの大きいビデオテープそのままが入っていたから、今のハンデイな業務用よりも大きい代物であった。息子がソニーの小型テープのビデオを買ってきた時はコンパクトに驚いたがそれも今は過去形の更に過去形の代物である。

以前勤めていた時、そこの主人は、昔電蓄(ラジオとレコードプレーヤが一つになったもの)を組み立てて売っていたと言っていた。しかし、その当時電気のことは殆どわからなかったのに驚いた。でも今その気持ちが良くわかる。何事もその流れの中に留まっていないとだめだなぁと思った。それと、神田の駅前に会った小さなお店だったがいつだったかわからないが高度成長期に入る前、多分昭和20年代だと思うが松下幸之助が来たこともあり、三洋の創業者の井植歳男も一度ならず来られたといっていた。個人的にアンプを組み立てていた頃、真空管は松下のを使っていた。その箱jを開けると「共存共栄」(多分、半世紀前なので)と書かれていた。お客も販売店も会社もとも利益を得るという意味だったと思う。会社も会社自体だけでなく社員もその恩恵に預かることは勿論である。今は大分違うようではなるが。

テレビで地元のニュースを観ていたら廃線になる長野電鉄屋代線の特集を流していた。これも時代の流れか、その中で唯一駅長が居る駅を映していた。その中で切符も昔の固いものでそれに日付を入れる機械もチラッと見えた。昔はどこでも見えた駅の窓口の風景である。日付を入れる機械は昔勤めていた会社が独占的に作っている日付器である。これも懐かしい。

生活が便利になり、時代の変化の速さを見ているとその変化の中に脈絡がなくなってきているように思える。速さと効率化が人を物を分断しているような、そんな感じを受ける。あるいは分業化して、より専門的になり、まさに歯車のひとつのようになって全体が見えなくされているような気がしないでもない。昔、NHKで「向こう三軒両隣り」というドラマがあったように記憶している。題名のように隣近所の連帯感があった。個人主義がそれをばらばらにしてしまったように思う。時代の流れは大河の流れのようにゆっくりとあるいは速く流れて、人が押しとどめることも戻すこともできない。原発の事故でも如何に深刻であるかがわかっていても、身近な利益の為にやめることができない。あるいは個人ではどうすることもできない姿を見る思いがする。年寄りのセンチメンタリズムか。