2012年2月18日土曜日

お経

15日にIさんの告別式に集会のみなさんと出席した。こちらに来て初めてであり、殆どキリスト教式だから仏式はほんとに久しぶりである。仏式は細かいところが個々に違う。JAホールだったからそれほどうるさくはなかったように思う。これがお寺でやるとまた違うようだ。それと家々によっても違う。

お坊さんのお経を聞きながら思ったことは、お寺でやったらそれなりの重みがあるだろうがホールではなんとなくむなしく響く、ところどころの言葉はわかり、経文を読んでいるだけでなく、それなりの仏教の哲学を語っている部分もあるだろうと思って聞いていた。聞きながらかつてのカトリックは礼拝はラテン語で語られていたらしいから当時の信者はわからないことばで神父の話なり、礼拝の祈りを聞かされていたのと同じかなと思った(実際は過去も現在も知らないので憶測)。お経は短く、そのような部分を説教のように語っていけば葬式仏教などと言われないですむのにと思った。わかりやすいことばで語られたらお互いに益するのにと思った。

もう大分昔だが伯父の葬儀の時、鶴見の総持寺で行われて、従兄弟とその子供さんたちに伯父の本家に当たる従兄弟と私が列席した。人も少なく質素な葬儀だった。その時はお坊さんが数人、若いお坊さんもそのくらいでお坊さんのほうが多いくらいの感じであったように記憶している。お坊さんが唱えてる読経を思い出して、音楽のような楽器か合唱かどこか荘厳さがあった。音楽として聴けるかなと思ったが失礼かな。それはそれで理解されても、しかし、分からぬ経は仏教の衰退を招くのではないだろうか否既に招いている。危惧されて頑張っているお坊さんもいるようだ。勿論キリスト教も安泰ではない。何度も書くが「今日の律法学者、パリサイ人はキリスト者」の危険性を持っていると思っている。自分もその自覚がある。だからといってどうすれば良いかは具体的にわからない。こちらも危機感はないでもない。