2012年2月28日火曜日

パウロが語る福音

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(rom 8:19-22)というパウロのことばがある。

福音的な教会で聞くメッセージに人間の救いは語られても被造物が贖われることは殆ど語られていないように思う。救いの完成がなされれば必然的に贖われるという前提があるからだろうか、それだけではないように思う。どこか矮小化されているような感じを受けなくもない。

聖書を読んでいるとパウロの熱い思いが伝わってくる。同胞から命を狙われても「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(rom 9:3)と告白し、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」(col1:24)とコロサイの信者に語っている。その根底にあるのは、彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞いた。彼が、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、お答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。・・・』」(acts 9:4-5)。キリスト者を迫害し、それが神のお心と思っていたその思いは砕かれ、断罪されずにパウロに与えられていたのは主の赦しであった。このことがパウロの生涯を貫いているように思う。そこにあるのは同胞のためでも、異邦人のためでもなく、主のお心のままにといった方が正しいのかもしれない。そのためにパウロは命を厭わなかった。赦された者が応答する最高のものである。

気宇壮大な救いの完成を思うと想像すらできない。サルの現実は湖上を歩こうとしたペテロが「・・・、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。」(matt 14:30)。ペテロに、お前と一緒にされたくないといわれそうだがそれ以下なのである。しかし、パウロの語ろうとしている一端なり、さわりなりにでも触れたいものである。これは読むだけでは分からないであろう。妻の一言でカッとなる我を見て思う。