2012年3月2日金曜日

共感をもって

上沼先生の「ウイクリー瞑想」で久しぶりにご自分の教会に集われた感想が書かれていた。牧師夫妻がサンフランシスコ近辺から毎週2時間もかけて来るという。(サルが集う集会にも月に一回東京から2時間かけてM伝道者が来て下さる)。

以前、小嶋牧師のブログをコピーして載せて、それに感じたことを書いたら小嶋牧師からコメントされたことがあった。(コメントしないことにというよりできないのでそのまんま失礼している)。上沼先生のも失礼して大半をコピーさせてもらう。


ウイクリー瞑想「うーん教会!!」


・・・

教会のある山のなかは、ある部分はサクラメントのベットタウン
で、そのような人たちが住んでいます。ある部分はヒッピーの生き
残りとか、ベトナム戦争の帰還兵が住んでいると言われます。いず
れサンフランシスコ湾に流れ込む二つの支流の分水嶺の上に隔離さ
れた感じの町です。皆それぞれ何か曰くがあってこの山の町に住ん
でいる感じです。人生の大きな傷が大きな自然のなかで静かに癒さ
れることをじっと待っているようです。その過去には触れないで、
時間が癒してくれることを待っているかのようです。

牧師夫婦はサンフランシスコ近辺に住んでいます。2時間は
かけて毎週説教に来ています。そういう状況であるという上でさら
に牧師として招聘したのです。それだけの意味があると、何度か説
教を聞くうちに教会員が気づいたのです。今日はガラテヤ書5
章から、肉の思いと御霊の思いの相克について語りました。これは
自分のことですと前置きして語り出しました。身近な親戚の人たち
に対しての肉の思いに支配されていると言うのです。教会内にも人
間関係でぎくしゃくすることがあるようなのですが、自分の葛藤と
して、自分に対する試練として率直に語るのです。

その説教だけで、後は牧師が地元に住んでいなくても、いつも声
をかけてくれなくても、教会員が充分満たされていることが分かり
ます。その説教だけで養われるだけの準備をし、それだけの情熱を
かけていることが分かります。出席者はその一言も漏らさないよう
に耳を傾けるのです。しっかりと訴えるものがあります。

そのような説教に人びとが少しずつ反応をしてきているようで
す。長い間隠されていた傷がどこかで触れられてきているのでしょ
うか。こちらも遠慮して話しかけないこともあって分からないので
すが、それぞれが何か曰くがあって長く隠れて生活してきた人たち
が足を向けてきているかのようです。どこかで内側に長くおおって
いたもの、膿のように抱えていたものに触れられてきて、礼拝に足
を運んでいるかのようです。何か出来上がったというか、整ってい
る教会には居心地が悪くて参加できないような人たちが、少しずつ
顔を出してきているかのようです。この教会でなければとてもでは
ないが礼拝に参加できないと思われる人が徐々に集ってきています。

そのような人たちを、実はあのチャック・スミスの大きな教会の
夕べの聖書研究会でも見てきたことを思い出しました。男性たちの
なかには願ったわけでもなくて独り身になってしまったような人
が、そのことで裁かれるようなことがなく、礼拝堂での夕べの聖書
研究で聖書を開き、メッセージに耳を傾けているのです。ここでな
ければ自分はいられないという思いが何となしに伝わってきます。
そのような人はとてもいられそうもない整った教会を、アメリカで
も日本でも見ます。それなりに整っていて、居心地が良いのです
が、そこは、そのような整った人たちだけがいられる場なのです。

この山の町にもいくつか教会があります。私たちの教会は結構歴
史がありますが、今は2時間かけて通ってくるだけの牧師で
す。それでも説教を通して、今までどこにも行けなかったような人
たちが、何とか居場所を見つけることができる教会になってきてい
るようです。何かに惹かれるものがあって説教に耳を傾けに来てい
るようです。それだけの説教をしています。それだけで教会が動く
のです。それに応える人たちが、全く思いがけないところから起こ
されているかのようです。教会とは?!、と唸らされます。

上沼昌雄記


教会の様子が何となく伺え知れる。本当は「ここでなければ自分はいられないという思いが何となしに伝わってきます。そのような人はとてもいられそうもない整った教会を、アメリカでも日本でも見ます。それなりに整っていて、居心地が良いのですが、そこは、そのような整った人たちだけがいられる場なのです。」ここだけを引用させてもらおうと思っていたがもったいなくて殆どを引用というよりコピーさせてもらいました。

サルのような中途半端なキリスト者はとても共感が持てる。信仰を捨てていなくても集会に集いない人をたくさん知っている。かつてサルは追いやった側のひとりでもあるという傷を持っている。だからそうやって傷をもっている人が集える教会を見ることは非常にうれしい。諸集会にはそんな集まりがあるのだろうか。