2012年5月4日金曜日

聖書の中のたとえ話

今度の日曜日は短いメッセージをする。準備する中で思ったことは、暗誦聖句は苦手だが信仰生活が長くなると聖書の言葉や信仰のありようがパターン化しているのを教えられる。神学とかそういう類に疎く、またそのようなものを避けているグループに属しているからなおのことである。だからこそ色々なものがパターン化しているのかなとも思ったりもする。だからKJGというブログを読ませていただいて、疑問に思っていたことに答えてくれているように思っているがその先が今一理解できない。多分パターン化した信仰なり聖書理解の所為だと思っている。

「わが故郷、天にあらず」を大分前に買って今読んでいる。以前ならすぐ読み終えるのに読み始めて大分経つのにまだ半分しか読んでいない。家内がタイトルを見て、大丈夫なのといってきた。サブタイトルが「この世で創造的に生きる」なんて読めば、世を愛するように捉えるのがわが集まりの悲しい性である。昔、ある集会(そこはちょっとカタイ)の姉妹が集会では地味な格好で行くけど普段はファッションを楽しむようなことを言っていたのを思い出す。あれから四半世紀以上経っているから大分変わったと思うが。でもその流れの中にいるのには変わらないだろう。世は世なのである。

本の中で著者は、「なぜ休めないのか」の章の中で放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11-32)とぶどう園の主人と雇い人のたとえ話(マタイ20:1-16)のことを引用している。現実の問題として兄の立場や朝早くから働いた雇い人に理解を示しながらも、そのことによっては神に受け入れられないものであることを書いている。神の恵みは努力によってではなく神の恵みによって与えられるものであり、ある意味でグータラであることが神の恵みなり愛を知ることができるのかなと思った。勤勉であるということは、人に何かと要求するものがあるように思った。牧師制を取ってないから集会の責任者は忙しくしている。立場上忙しくせざるを得ないことは分かる。しかし、このような観点から見ると信仰に熱心であるように見えるが実は不信仰ではなかろうかなとふっと思った。もちろん批判としてではなく、委ねるということは神のみに非ず、他の信者に委ねるということを避けている。勤勉であることは兄の立場であり,朝から働いている人の立場である。そこから祝福はないはずだ。勤勉は信仰も集会も硬直させる危険性を持っているように見えた。原発の問題と同じで本質はスポイルされて現実に立って物事を処理しようとしているように見える。たとえ話は聖書の箇所として語れても現実を踏まえて何も語れないものであることを教えられた。