2012年5月10日木曜日

アナクリノ

東京の郊外にあるA集会からいつも月報を送っていただいている。今回は厚い封筒なので何が入っているのだろう。キャンプの案内にしては厚いし、それにもうキャンプは終わったしと開封したらプリントが入っていた。「アナクリノ」第3号、兄弟たちが学んだ中から今回は「聖書」がテーマだった。何時も外部からふたりの兄弟も加わっている。アンチ神学?の群れであるから神学校を出ていたり、ギリシャ語からなんていうものは即アレルギーではないのかなと思っている。残念ながらその流れの中にいる者ではないのではっきりしたことは云えないがあるブログにこんな様なことが書かれていた。

他の教派・群れではともかく、(・・・)の周囲では、「これについて、学んでください」「これについて、学びます」とテーマを決めて、提示されることは少ない。
 そういうわけで、主に、時間と場所と語り手の情報のみで、連絡は回る。内容・主題については、そのときにならないとわからない

 ただそれは、「聖霊の導き」と「祈り」と、それによる「みことば(=聖書のことば)」を重んじているからであり、行き当たりばったりなのではない、と添えておく」 

これもキリスト者の一つの姿でもある。

「アナクリノ」は1号誌に説明されていたように記憶しているが残念ながらそれを紛失してしまった。しかし、アナ-繰り返し、クリーノ-探求する、研究するとある。それに巻頭言に、
「・・・私たちが、『キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者』となっていくためには、教えられてきたことを前提にみことばを解釈するのではなく、前提なしでみことば読み、みことばの教える真理を確認していく必要があるのではないでしょうか。殆どの集会では当然と思われるているにもかかわらず、実際にはみことばの教える真理というより、集会の伝統として受け継がれていることが数多くあります。・・・みことばにたとえ根拠があるにしても、解釈によっては違う読み方も可能ではないか、或いはみことばに示されているというよりも伝統として受け継がれててきていることなどとに区別していくべきだと考えてきました。・・・」(前後略)。

「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」acts 17:11


ベレヤの信者のような姿勢が見えるからうれしい。しかし、巻頭言のことばは良くわかり、実際経験しているから指摘されていることにも頷ける。神学的なものもあるようでサルのような者には難しい部分もある。集会間には水と油ように交じり合うことのない部分もあることは承知している。どちらにしても人間のやっていること、完全であるはずがない。あると言ったら、それは神に代わるものであろう。そこまでいくと僭越である。対極にあるものを見るができればサルのような無学な者にでも良くわかるように説明されたら感謝である。それは無理か。霊的であることよりも、神学的であることよりも愛からくる謙遜が土台に、サルには分からなくともこれからの諸集会のために期待している。