2012年6月1日金曜日

二つの渡河

イスラエルの民がエジプトから脱出して約束の地カナンに入るのに紅海とヨルダン川を渡った。そのことを思い浮かべている。紅海を渡るとき背後にエジプト軍が迫っていた。前は海、背後にエジプト軍まさに彼らは絶体絶命の危機に陥っていた。しかしモーセの杖が海に触れると海は左右に分かれて乾いた地となって民は渡ることが出来た。映画の十戒のイメージではないが水は衝立のようになっていたのではないだろうかでも彼らはエジプト軍への恐れからただ逃げることで精一杯で水がどのようになっているのかわからなかったであろうと推察する。

一方、ヨルダン川の渡河は、シティムのはるか上流のアダムの町まで水はせき止められている。乾季の水の少ない時ではなく、岸まで満々と水があふれていた時である。東京でいったら新宿から甲州街道を府中まで20キロくらいはありそうな距離である。なぜなのだろうと思った。

一つは緊迫した場面であり、一つは穏やかな状況を思い浮かぶのである。振り返ったとき累々と漂っている兵士と戦車、戦慄が走るような出来事ではなかったろうか。片や振り返ってもさほど感動もなく渡ったような感じを受ける。約束地に入る緊張と期待はあったのだろうか。どちらにしても生きるか死ぬかの緊張感はなかったであろう。はるか彼方に水がせき止められていることを思うとそのことを感じる。

信仰に応じて神は守ってくれる度合いをこのことを通して教えられる思いがする。エジプト軍が迫ってこなかったら紅海の水ははるか彼方まで引いてないと彼らは渡らなかったであろう。緊急の場合は、渡河するためのスペースがあればいい。しかし、そのようなものがない場合は安心して渡れるようにはるか彼方に水のミさえ感じさせない距離が必要なのではなかろうかと思う。

私たちの信仰の歩みにはこのような二つの状況があってそれに対応した神の助け、守りがあるような気がする。今はどちら?