2012年6月6日水曜日

隣人となるには

三日の日曜日にルカの福音書10章の「良きサマリヤ人」から話をししたが福音プラス学びのような内容になってしまった。聖書を「・・・人の私的解釈を施してはならない、・・・」(2pet: 1:20)ことをやっている。それにあのヨブでさい「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(job:38: 2)といわれているのに、サルは足元などということ際はばかれるような者だからである。


この話の最後にイエス様は律法の専門家に「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われたがやらないだろうし、やろうとしても出来ないだろうなと思った。なぜなら、これは律法の専門家自身が変わらなければできないことだからである。律法の専門家は自分の持っている律法の知識が彼を束縛し、神を知り、その御心を知っていると自負していたであろうがそれは改心前のサウロと同じであったと思う。サマリヤ人はフリーハンドのように行動することが出来たであろうと思う。キリスト者は律法学者のように成り得る最も近いところにいる者だ心しなければと思う。




「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1cor: 8: 1