2012年6月16日土曜日

制御できないもの





もう半世紀も前に読んだ本の中に書いてあったことを今も覚えている。細かいことは忘れたがオートバイに関する本であった。「人力で動かすものは事故になってもそれほど大きいものでもないが動力を他のものでやると事故は大きくなる。その動力が大きければ大きいほど大きい」こんな文ではなかったがでもこんな感じだった。

自転車に乗って事故っても怪我くらいで済む、(最近は自転車の事故で人が亡くなるニュースを読むが)、しかしオートバイの事故は死につながる。あの頃は若者のオートバイ事故がニュースになって、知人の高校生の息子さんのいる方は、息子の友達がオートバイに乗って事故にあって亡くなったとか半身不随になったとか息子さんの周りには事故のことがある意味で日常茶飯事だった。ある母親はオートバイで出かけた息子が帰ってくるまで心配で帰ってきた時はほっとすると言っていた。
オートバイは怪我すれば本人、自己責任みたいなもの自動車と違う感覚である。これより自動車、鉄道、飛行機と起きた時が大事故につながる。

これらは制御できるものである。制御できなくて痛ましい事故につながることがある。しかし、事故そのものはそれで終わりである。聖書の中に制御できないものがあるといっている。

しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。jas: 3: 8

まぁ自他共に認めることである。舌が悪なのか制御できないのが悪なのか分からないが「ことば」の一面を何時の時代でも経験させられてきた。その制御できないものがもう一つ加わった。事故が起きて初めて知った原発である。電事連が安全だ安心だと太鼓を叩いて唱えていたのにこれだったのかの感がした。人はある目的のために手段を選ばない。危険な結果を伴うものでも誰かが利益を生み出すものであればそれをやる。しかし、その付けは・・・