2012年7月2日月曜日

ケセン語訳聖書

月一回の礼拝後の話しを昨日する。
最近読んでいる「イエスの言葉」 ケセン語訳 山浦玄嗣著 (文春新書)から少し話すが相変わらず説明が抜けていたかなと反省している。毎回のことである。まさにサルは猿並みなのである。別に自虐的ではない。

ケセン語訳聖書を東京新聞の1月7日付の土曜訪問と文春新書の帯びに標準語の聖書より分かりやすいと書いてあったがあれには異論がある。たまたま何かで入れた山上の垂訓と放蕩息子のたとえ話を聞くと殆ど分からない。新潟でも北の方に生まれ育っているから東北地方の言葉も混ざっているので他の人より少しは分かるのかなと思っているがそれでも分からない。と言っても田舎に帰って本物の方言を聞くと殆ど分からないからあまり説得力はないが。

思考は硬直的傾向なので読んでいてなんでこんな言葉がと驚く、否定的ではなく肯定的に捕らえてのことであるが。本の中で「本当の幸せへ」の項を紹介した。ヨハネの福音書14章6節からで、
「わたしは道であり、真理であり、命でる。」新共同訳。
これを
「俺は、人を本当の幸せに導く!」
「俺は、人が本当に幸せになるなり方を教える!」
「俺は、人を幸せに活き活き生かす!」

何回も聞いてきた言葉でそれなりに頷いて聞けた言だがこのように訳されるとまたそれなりに味わいがあっていい。「道」本当の幸せに導くもの、「真理」そのなり方、「いのち」生きている躍動感を与える。どちらかというと聖書解釈に目が行ってしまうが実生活の中に如何に聖書のことばが生かされるかといったらケセン語聖書の方かもしれない。原語からより忠実にもすばらしいが実生活で生かされる聖書のことばは身近な言葉でなされたらなおすばらしいのではないだろうか。それと「悔い改める」を「心をスッパリ切り換える」と訳されて、悔い改めも分からないことはないがこちらの方が具体的でとてもいい。今まで「悔い改める」は時には罪を認めるくらいの認識しかなかったのではないだろうかと「天国行きの切符を手にするもの」と揶揄される所以ではなかろうかと思わされている。