2012年7月7日土曜日

痛みを知る

今、大津市での中学生の自殺が話題になっている。学校や教委の対応はいつも聞くパターンである。法律的なことは分からないが警察も対応してくれなかったようだ。子供さんを亡くされたご両親の苦悩を思うと心が痛む。

こんな事件を見ているとイソップ物語の「少年と蛙」?だったかを思い出す。少年が池に投げている行為は他意はなくとも池の中にいる蛙にとっては死の恐怖にさらされていることである。やる方は他意がなくともやられる方はまさに死活問題なのである。もし意図的であったら?それはもう萬屋錦の助の「破れ傘刀舟」ではないが彼が最後に発する言葉「許せねぇ、てめえら人間じゃねぇ!叩っきてやる」という台詞を思い出す。

パスカルはパンセ「347」にこのように書いている。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとえ宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。(前田陽一・由木康訳、中公クラシックス)


ある意味で何も考えていないのかもしれない。原発の問題と同じように考えているのは自己保身か?親であっても子供に対して最善を考えても最善をなすことは不可能ではあるが。


痛みや弱さは生きるうえでは障害になるかもしれないがこれを知らないで生きることはある面で悲劇であるような気がする。イエス様は「泣く者とともに泣き、笑う者とともに笑う」その人に寄り添えながら忍耐を持って人間復興(神とともみ歩む)を願っていたのではないかなと思ったりもしている。パリサイ人や律法学者はこれをやらなかったというか出来なかった。考えさせられる。