2012年8月18日土曜日

いのちのパン

ヨハネの福音書6章48節に「わたしはいのちパンです」とイエス様が言われたことが書いてある。このことばは何か分水嶺のように思えた。

五千人あまりにパンを与えて満腹させたことは、弟子を含めて民衆が自分たちを守り、日々の糧を備えてくれる方としてのメシア待望であることが推察される。14,15節でダビデの再来を願っていることをうかがわせるようにヨハネは書いている。これは日本の神々が拝跪する者の願いを聞いてくださる神であるのと変わらない。

そして追い討ちを掛けるように23節で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」と断言している。そしてこのことばで多くの弟子が去ったことも記されている。

ここに「日々の糧を与えてくれる神」か「いのちを与えてくれる主権を持った神」かの選択が求められる。ロマ書11章22節には「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」とある。口語訳では「神の慈愛と峻厳を見よ。」となっている。どちらかというとこちらの方が好きである。

キリスト者でも「日々の糧を与えてくれる神様」が良い、なぜなら「わたしが主権者」だから、いのちのパンを与えてくださる方であるなら「わたしが主権者」ではあり得ない。いのちのパンを与えてくださる方が「主権者」なのである。

イエス様が霊の世界を語っているのに弟子を含め民衆は肉の世界のことしか頭になかったことでもあるのかも知れない。ここで、同じ言葉でも基盤が違っていたら交わることはできない。この宣言を通して「いつくしみ」に留まるか「厳しさの中」に置かれるかその選択を聞く者に問うているように聞こえる。