2012年8月24日金曜日

渇くことのない水




「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」john 4:13-14

昔、母方の伯母の葬式に伯父が近づいてきて、「お前、パンも大切だよ」と言われたことがあった。ただそれだけの会話で終わったが田舎でクリスチャンになったことを知ったのだろう。商売というかそういうのに機敏な伯父らしいなと思った。ご忠告を聞き流したので今もって「日ごとの糧」のみで荒野の生活の中にいる。イスラエルの民が荒野で「あぁ肉が食べたい・・・」という気持ちが良くわかる。

パンよりも大切かはわからないが「水」も生きていく上で大切である。山で遭難した人が助かった要因に沢の水を飲めたとか水を飲めて助かったことを良く聞く。今年は熱中症の話題が多かったように思う。それだけ猛暑だったのだろう。水の補給の欠如が要因である。パンがなくとも水があればいのちの保持につながるのだろう。

教会では偶像崇拝という言葉をよく使う。一言で言えば「神ならぬものを神とする」。イスラエルの歴史を見るとまさにその歴史である。だから具体的な例としてメッセージにもよく出てくる。しかし、現代の偶像の一つである「富み」についてはあまり触れないのが多少不満を感ずるところである。

聖書の中に偶像ということばが出てくるから良く使われるのだろう。でも一般社会でも使われるが教会ほどの認識はないように思うがどうだろうか。偶像というより宗教といったほうが通りはいいかなと思っている。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と言われたイエス様の言葉は現代の宗教の姿を映しているように思うがどうだろう。今日の宗教が信仰より金儲けに重きを成している感がする。批判するつもりはないがそうせざるを得ないところに宗教の問題点があるような気がする。そしてお互いに納得しながらまた渇く行為をしているのである。

教会も人の集まりである以上この問題は避けて通れない。現に金銭が絡んでごたごたしている教会を身近に見ているとそうだなと思う。一応表向きはいいこと言っているが以前にもあったし、キリストの名の下に人を裁かないでほしいなと思うがそうでもないらしい。信仰共同体であるから信仰の一致ができなければ出るか出されるかはしょうがないのだろう。そこに人々が集まるからキリストの名の下に実は指導者の顔があるのかもしれない。真にキリストの名の下に集まるなら誰でもいいわけだけどそうは行かない。そこに人の集まりの難しさがある。というより「いける水」を飲んでいたつもりが「渇く水」を飲んでいるのかもしれない。

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」。ここにはプロテスタントもカトリックも教会も集会もない。そうでないのは真に「渇くことのない水」を飲んでいない所為かもしれない。ちょっと短絡的か。