2012年9月1日土曜日

9月になって

9月になってもどうってことないのだがなんとなく暑い夏が過ぎたのかと思うとホッとする。歳をとると寒い冬も暑い夏も苦手になった。身体が元気で活動的なときは良いのだがそうでもなくなると凌ぎやすい時が一番、気候的にも精神的にもさらに肉体的にもである。

上沼先生がニュッサのグレゴリウスの言葉として「箴言と伝道者の書と雅歌の三つの書を、人生における青年期、壮年期、老年期として読んでいる。倫理的な生き方から、哲学的な経験を通して、霊的な世界に至るプロセスとしてみている。」と本で紹介している。最初に読んだ時面白い捉え方だなと思った。本来の意味はかわからないが自分なりに何となく納得できる。老年期になった所為だと思う。そして何となく慰められている。

同じようなことを書いているが歳をとるとあらゆるものが衰えてくる。若さは色々ものが隠してくれるが若さがなくなると隠されているものが露わにされていくそれは見て美しいものではない。否むしろ醜いものだったりするからあまり見たくないものである。でも目をつぶるわけにはいかない。正視しないといけない。それは真実と向き合うことである。

箴言は箴言であり、わたしたちに何かを求めてくる。伝道者の書は人生の悲哀を味わわせてくれる。雅歌は恋の歌である。「あの方のすべてがいとしい」、ここに何かを求められることもない。或いは神との関係で失恋ということもない。わたしのすべてが受け入れられているのである。否その更に上のレベルで受け入れられている。自分も他者も受け入れ難い姿であるのにと思うと神と私の関係がそのようなものであることを教えられる。信仰者の歩みはどこか能力主義的であるように思えてならない。神との関係はそうではない筈だ。福音書の中でのイエス様の姿や言動がそうである。放蕩息子を取り扱う父の姿はそうである。しかし信仰者は放蕩息子に目もくれることもなく兄の姿を颯爽と示している。自分の中にもあるからどこかで自分を受け入れることができないでいる。