2012年9月6日木曜日

最善のものを

こちらに来てから何度か東京に行ってひとつ教えられたことがあった。以前住んでいた所に息子がひとりで暮らしている。最初行った時は散らかっていたが行く度に片付いているようになった。わたしたちが行くと家内は料理と洗濯、わたしは片付けと諸々の直しをやる。6月に行った時は来るとわかっていたのか掃除もしてあり片付いてもいた。わたしがやったのは前回時間がなくてできなかった3.11の地震で壊れたコンセントの交換と細長いボックスが倒れてガラスの部分が割れて紙でカバーしてあったのをプラスチックの板に入れ替え、本棚もぐらついていたので補強したくらいである。

家内はいつものように洗濯をし料理を作っていた。お天気も良いので二日に掛けて布団も干す。一回干せばいいだろうと思っていたら家内がわたしたちが来た時しか干せないからと息子のベッドの布団をもう一回干してといわれて2回も干す。料理も帰った後でも食べられるようにとおかずを少し作っていた。

家内は息子のことを思って色々やっているの見て、私はコンセントを替えたり、プラスチックの板をはめたり、本棚を直したりして、それ自体は悪いことではないがそれによって息子が利便性を得たかというと何もない。コンセントには延長コードがついているから延長コードをはずさない限り全く関係ない。ボックスも紙がプラスチックになっただけでこれも然りである。直さなくてもいいというわけでもないが直さなくても生活に支障があるわけではない。わたしも壊れているから直すという感じで、これによって息子が助かるからという思いはない。

一方家内のやっていることは、直接助かることばかりである。洗濯はしなくてもよいし、カーテンも洗ってもらった。料理も作ってあるから帰ってきてから何か作るということもしなくても良い。それに布団も2回も干してもらっている。わたしと家内の目線の違いを教えられた。目線がわたし自身か息子かの違いがある。わたしは自分の側に立って事をやっていたが家内は息子の側に立ってやっている。布団も一回干せばいいじゃないというわたしともう一回という家内、ここに父親と母親の違いを教えられる。ここに息子にいいようにと思う母親の姿がある。

神様はわたしたちに必要なもの、最も大切なものを備えてくださっている。そのために私たちに必要なものだからと御子イエス様を犯罪者の一人のように十字架に掛けることも厭わない。イエス様は十字架に架かられたのではない、神によって架けられたのである。恥辱の神として。自分の罪からではなくイエス様の十字架が臨むことによってわかるわが罪である。たとえどのようであっても人が主体ではなく神が主体なのである。そのことを真に知れるのは再臨のイエス様に出会ったときかなと思っている。