2012年9月17日月曜日

ペドロ岐部

遠藤周作の「銃と十字架」を図書館から借りて読んでいる。ペドロ岐部にスポットを当てた物語である。作者がカトリックの信者であるという先入観があるのかそんな視点で見てしまう。

戦国から江戸幕府初期の歴史をカトリックの宣教を軸に丁寧に書いている。一人の少年が神学校に入学し、キリシタン禁制で多くの信者とともにマカオに追放される。さらにインドのゴアから陸路エルサレムに行き、ローマにたどり着く、陸路を通ってエルサレムに行ったのは彼が始めてだそうだ。アフリカの喜望峰を通っていくのも命がけだが距離的には短くても更にの感がする。今日でも命がけでもある。そこで神父となり、迫害の日本に赴く、ポルトガル、喜望峰、インドのゴア、マカオ、アユタヤ、マニラと移動して、そこからルバング島に行き、日本にへと向かう。難破しながらも日本の漁船に助けられて鹿児島に上陸することができた。追放されて16年目に再び日本の地を踏むことができた。しかし、それは殉教の死を意味することでもある。迫害の中に多くの困難を経て身を投ずる信仰の強さは計り知れない。フェレイラや千々石ミゲル、トマス荒木などの棄教者にも触れているがフェレイラは別にして棄教者に対する理解も示している。

史実に基づいているが小説であるから読みやすい。あとがきに「彼は今日まで私が書き続けた多くの弱い者ではなく、強き人に属する人間である」とあるが作者の人となりを見る思いがする。これを読みながら長與善郎の「青銅の基督」を思い出した。こちらはフィクションであるが人の機微を思い出させる。南蛮鋳物師が踏み絵用の青銅のキリスト像を制作したことから起きる悲喜劇?である。彼は鋳物師としての誇りを持って製作した。しかし、キリシタンであるかつての恋人は、あまりにもすばらしいキリスト像を見て、彼が信者でなければできないと誤解して喜んで殉教していく。役人もまた信者でなければこんなキリスト像は作れないとこれも誤解してキリシタンとして殺してしまう。それぞれの思惑で動くが真実ではない。彼と彼の作品を理解していたのは通っていた廓の遊女だけであるというのは作者の皮肉か。

皮肉といえばホーソンの「緋文字」も同じだなぁと思った。最後の方で母親の胸に抱かれている娘が母親の胸に縫い付けてある緋文字の「A」を自分がその結果であることを知らずに無邪気にいじっている。これは姦淫した印であり、一生涯付けていなければならない。この子が大きくなったときにこれをどのように捉えるのだろうと思った。立場場不利益であるだろうが人としてどこが違うのだろうかという問いがある。母親が毅然として緋文字「A」を付けているとしたら、姦淫という倫理上の事実はあっても真実の愛と偽りの愛を告発しているように見える。彼女が裁かれたのではなく、逆に彼女によって裁いた人たちが裁かれたのではないだろうかと思っている。キリスト者の偽善、結局人は見えるところからしか判断できない。聖書に基づいていたとしても自分の感覚で物事を判断し結論しているのではないだろうか。たとえそれが理にかなっていたとしてもそこに「いのち」はない。「いのち」は絶対者なる神に畏敬の念を持って拝するということがない限りないように思う。愛がない限り、人は自分の立場を守るということしかできない。

松永吾一著の「ペトロ岐部」がある。この方はノンクリスチャンだから、また別の角度で書かれていると思うから読んでみようと思う。ペトロ岐部の立体像が見えるかもしれない。カトリック、プロテスタントの枠を超えて、彼の信仰のありようを知ることは大切かもしれない。

あの頃はスペイン、ポルトガルは改宗したユダヤ人を日本でのキリシタン迫害のようなことをやっている。それをペトロ岐部は知っていたはずである。そしてアジアで彼らがやっていたことも、作者はそのことを控えめに触れている。すべてを知った上で、まさに、キリスト教信者ではなく、キリスト者としてキリストを見すえて歩まれたのではと思う。