2012年9月19日水曜日

小説石狩平野に思う

若い時に読んだ船山馨の小説「石狩平野」を今思い出している。明治初期に開拓移民として、家族とともに北海道に渡った鶴代という女性の生涯を描いたものである。或いは作者は鶴代を通して明治から太平洋戦争の終結までの日本を、そして日本の選択の間違いを指摘するように描こうとしているのかもしれない。

鶴代は社会の底辺に生きながら世の中の流れに妥協することなく自分が正しいと信じる道をたくましく生きていく、たとえそれが自分に不利益になろうともそれを崩すことはなかった。戦争が終わり焦土と化した東京の焼け野原に子供を失いながらも残された二人の孫の手を取り「この子らが大きくなるまで頑張る(そのような台詞だったと思った)」とすくっと立っている姿を思い出す。もう老人となっているのにあの逞しさが印象に残っている。最後のシーンだと思った。

明治、大正、昭和(戦前)がどんなものであったか国民の多くが諸手を挙げて戦争に加担していく中で、毅然としていく鶴代の姿は本当に正しいものは何かを問いかけ、国民受けするような言動も、それは偽りに満ちていることを指摘しているような気がする。戦争中は息子の庇護の下にいれば「お母様」でいられたのに息子の生き方を善しとしないで厭いて社会の底辺に生き、貧しい生活を選択する。無学な鶴代が真の答えを出しているように見える。ちょっと読み込み過ぎかな・・・。

今、色々なことが起きている。今までほっといたツケがここに露呈したのかもしれない。民主党も酷いが半世紀も自民党は何をやってきたのだろうと思う。その反省もない姿は情けない。経済優先も貧しいときはいいかもしれないけど理念がないとエコノミックアニマルと云われても仕方がない。いまだにその片鱗があるような気がする。原発事故が子供たちに与える影響が深刻なのに経済界はそれに頬かむりしているようで悲しい。経済界も厳しい状況であるからわからないでもないが経済一辺倒もなんだぁと思ってしまう。マモンと言う神に拝祈している姿はどこもかしこも同じか。マスコミもサンケイと朝日のハザマで・・・と云ったら失礼か。「神の正義」はキリストの再臨を待つしかないのだろうか。チョット大袈裟かな。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」mark 1:15