2012年9月25日火曜日

最近思うこと

マタイの福音書十八章に「一万タラント借金して払いないので赦された人が百デナリ貸した人を許せなかった人」の事が書かれている。一タラントは六千デナリである。これでもすごいのに万とくると比較の対象ではない。

でも考えてみれば罪赦されているという事はこのようなことではないだろうか、しかし些細なことでも人を許せない自分がいる。夫婦二人で向き合っていると許していないものがお互いにあることに気付かされる。そんな時は一瞬気まづくなる。お互いどこか許せないものを相手に持っているからであろう。そんな時は大体お互いに持っているプライドに触れるからである。それを無くさないとだめだぁと思っている。これは百デナリに拘っているからである。そして一万タラント許されていることが意識の外にある。

マルコの福音書の一章にイエス様がツァラアトの人を「深くあわれ」んで癒していることが書かれている。夫婦が気まずくなるのは向き合って、相手が良く見える時である。深く憐れんでいる時は寄り添っている時である。痛みや苦しみを共有する時に気まずい思いはない。イエス様はツァラアトを病んでいる人とその苦しみ痛みを共有されていた。否、共有される方なのである。

福音宣教が金科玉条のようになると百デナリ許せなくても福音は語られる。許せなかったら語ってはいけないと言うのではないがどこか何かがスポイルされているような気がする。何かどこかでボタンのかけ違いをしているような気がしてならない。家内との関係も然りである。解決の方法も少し分かってきたと思っている。ただそれができるかどうかは別であるが。