2012年12月23日日曜日

ホワイト・クリスマス

今朝起きたら天気予報の通り白一色である。雪が降ったときは雪かきの音で目が覚めるが今朝はその音も無く雪は降らなかったのだなとゆっくりと起きたら一面の雪、そして既に雪かきがされていた。年だから必要最小限のところだけやって終わりにする。通りに出るまでの雪かきは去年はやったが今年は迷うことなくパス。後でどなたかが端の方を除雪していた。ほんの一部しかしなかったが今冬初めての雪かきになった。霧雨のような雨が降っていたので雪はどんどん融けてくる。こんな雪はいいが寒い時は融けたような部分が凍ってくるから考えただけでも身震いする。

クリスマスが近いので雪が降ったらホワイトクリスマスである。若い時、勿論ノンクリスチャンの時であるが何時もクリスマスが近づいてくるとビングクロスビーのホワイトクリスマスが恒例のようにラジオから流れていた。英語は解らなかったがクロスビーの甘い声とメロディーが今でも思い出す。あの当時は米軍放送なんかはエンドレスのようにクリスマス曲を一日中流していたように記憶している。日本のラジオ局でもクリスマスが近づいてくるとクリスマス局がよく流れていた。歌詞がわからなかったがどの曲も好きだった。

クリスチャンになってクリスマスソングは聞かなくなった。音楽は歌謡曲より、軽音楽が好きでクラシックはセミクラシックと言われるものくらいでジャズはデキーランが好きだった。映画やこのような娯楽は世的なものとしてご法度的雰囲気があって聴いたり観たりはしなくなった。あの当時若い姉妹がスラックスを履いて来たら宣教師の奥さんに注意されてそれからはスカートをはいて来るようになった。もし天皇に会うとすればきちっとした格好をするでしょう。まして主に合うならきちんとした格好をと言われたそうだ。今でもその名残があるのかなぁ?このことについては神は遍在している方だから多少抵抗はある。

それと、礼拝の時に礼拝讃美歌を使っている。新しくなってから曲は増えたが降誕の曲が2曲しかない。曲が「きよしこの夜」でも歌詞が降誕の曲ではない。降誕の曲が極端に少ないのは世の中にホワイトクリスマスなどのクリスマスソングが多いから意図的に避けているのかなと思ったりしているがどうなのかな。これは偶像崇拝だとして世の中のものと差別化をする傾向がある。その一つにお焼香や線香を上げることである。宗教行事の一つかもしれないが香を焚くというのはそういう意味があるのだろうか。仏教も神道も個々のやり方をみていると意味よりも形に拘っているのかなと思うことがある。そこに偶像すらも無いのではないだろうか。些細なことに目を光らせ、真の偶像を見逃しているような気がしてならないまさにサタンの思う壺である。信仰生活を忠実に歩んでいるようで実は「神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」ようなところがある。

差別化といえば霊肉も然りかもしれない。ある宗派の人たちは肉を食べない。そこにいた人の証を聞いたことがある。表向きはそうであっても肉を食べている人がいてそういう人を肉的クリスチャンと言いい、本当に肉を食べない人を霊的クリスチャンというとそんなことを聞いたことがある。勿論批判としてではなく。霊肉の差別化もあるような気がする。肉は穢れたものと聖書にも書いてあるからかもしれないがここにも差別があるような気がする。だからイエス様は肉体をとってこられたということも言えるのではないだろうか。その辺のところはパウロ書簡と福音書微妙なずれがあるような気がする。勿論神学のシの字も知らない者であり、ただ単純に聖書を読んで感じるだけである。「福音宣教と忠実に教会生活を歩む」ことが優先してパウロの書簡を曲解していないだろうかと思うことがある。