2013年1月1日火曜日

年末年始

「味噌越しの底にたまりし大晦日、越すに越されず越されずに越す」。年末になると若い時に聴いた落語の小噺の中にあったこの言葉を思い出す。

借りがあって工面に四苦八苦しているわけではない。しかし、年を越す前にあれもこれもと思っていても一つ二つと残ってしまう。それをやってしまわないと困るわけではなく、物事を片付けてすっきりして新年を迎えたいと思うだけである。新年を迎えるといっても挨拶回りや新年の挨拶に誰かが来るということでもなく、むしろゴロゴロしているようなものである。まぁ気分の問題、それでどうなる訳でもない。元日早々ブログを書いているということは暇の証拠、というより暮れからそのままになっていたので書いているのである。

例年は家内がコタツに入って紅白を観、サルはそれほど興味は無いのでパソコンとにらめっこしたり、本を読んだりしているが今回はコタツにもぐって終わりごろまで寝ていた。国民的行事らしいがどこが面白いのかわからない。歌は嫌いではないがワザワザ観たいと思わない。その後始まっているがテレビ東京のジルベスターコンサートを観る。15分しかないが丁度零時に終わる演奏の緊張感が何とも云えない。まぁ曲の時間はわかるからそれを逆算して丁度終わるようにしていれ場いいことだがそれでも演奏者も聴衆も緊張しているのが伝わってくるような感じを受ける。今回はだと思うが最後の演奏がコマーシャルで中断して終わってしまった。

何時もはその後にNHKの行く年来る年を観たり、他局のを観てお休みとなる。今回は家内はそれで寝たのだがサルは今まで興味も無く、観る事はなかった「朝まで生テレビ」を最後まで観てしまった。田原さんはじめ出席者は自己主張的な印象があったが今回見てそれなり肯けるものがあってよかった。それに最初気がつかなかったが顔といい、名前といいどこかで見た顔と名前だなと思ったら昨年の秋に市の主宰で講演会があった講師の藻谷さんだった。田原さんが指名して質問していたが好意的に見ているようでうれしかった。皆と噛み合わなかったところがあるがあって、どちらかというと違和感的、その中で何回かとなりに座っていた草間さんがフォローしていた。以前聞いていたからも谷さんの言わんとしていることが良くわかり、他の人たちは抽象的に聞こえてしまった。統計の数字から読み解く、それを徹底していると良くわかることがある。藻谷さんはそれをやっている。今の円安、株高はご祝儀相場、これからによってはどう変化するかわからない。その点、藻谷さんのは統計の裏づけがあるから説得力があるがでも誰も肯定しない。政治の面には色々あるだろうがこれからの国をどうするかのビジョンがないと国は右に左にと定まらない。色々な見方があり、生き方がある。これからの日本をどうするかでは思いが一致しているようで良かった。これから見るかどうかは解らないが。民主の大塚耕平さんが日銀出身だとは知らなかった。聞いていてなっとくできる方だ。民主党にもこのような方多くいればいいのだがと思ったがどうだろう。

元日はそんなことで9時まで寝ていて、朝食のお雑煮は別々、既に家内は社会人の駅伝を観ていた。二日三日は箱根駅伝、新しい年は社会人と大学駅伝で始まり、その後からやることをはじめる。今年はどんな年になるのだろうか意に添わぬこともあるだろう。しかし、一年が終わって主に感謝できる年であることを願う。わが祈りとすることができたらと思う祈りである。

病者の祈り
 
大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことが出来るように健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱が与えられた
 
幸せになろうとして富みを求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
 
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
 
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ
 
ニューヨークリハビリセンター研究所の壁に書かれた患者の詩 (作者不明)