2013年1月7日月曜日

信仰と希望と愛

信仰
信仰というと「何かの宗教を信じる」と理解されやすい。しかし、人は多くの信仰をもって生きている。人は当然のように思ってやっていることの多くは、絶対的な確信ではなく、信仰をもってやっている事柄である。絶対的なものでない限り信仰が必要である。

間違って信じている場合もある。
原発は、事故が起きる前の電気事業連合会(電事連)HPでは「原子炉は二重三重に安全対策を施してありますから安全です」と書いてあった。そして疑うこと無く信じていた。
福島の原発事故が起きて、これが嘘である事が分かった。何時であったかテレビで京大の小出裕章さんが原発の危険性を熱心に説いているのに、その隣にいた東大の先生はそれを一笑に付していたからそうだと思っていたらこれも間違っていた。

信じる対極にあるのは疑うことである
人は、間違っていることを信じて、正しいことを信じられない傾向にある。聖書は多くの人たちに疑われている。
「神なんかいないよ」、「神がいるなら、なぜ沢山の不幸があるのか」と。そこには、罪の問題がある。罪は「的をはず」という意味である。それは、本当のことが偽りのように、偽りがあたかも本当のことのように思わせる。そのような状態の中に、人は隷属させられているのである。救いとはそのようなものからの解放を意味するものでもある。

4世紀の神学者 グレゴリオの言葉
キリストによって人間が救われるということはどういうことなのか。それは人間が神とともに働き、そして最初の人間アダムの堕罪以前の状態、すなわち恩寵に満たされ、何らの不足も不満も不安もない、そして、神とともにあたかもその友となって暮していた状態、神の友となるという状態への回帰である。まさに神の友である以上、もはやこの世の何者をもその心の主とする必要もない。したがって、誰の手下でもないということ、それゆえ、本当に自主的であるという状態である。(シロクマさんのブログより)                    

希望
19世紀のイギリスの政治家でベンジャミン・ディズレーリーの言葉に「絶望は愚か者の結論である」。しかし、賢者と言われる人でも然りである。
ユダヤ人で精神医学者であったV・E・フランクルはナチスに強制収容所に入れられ、奥さんと二人の子供さんをそこで殺された。人間の極限の状態を体験しながら同時にナチスと同胞たちを冷静に観察している。その中で希望の無い人から次々と死んで行き、強く生きる希望を持った人だけが生き延びていることを書いている。希望は生きる力の源である 。希望の対極にあるのは絶望である。悲しいことに希望を持てなくて、自ら命を絶つ人が後を絶たない。

愛は、信じる力と希望を生み出す。人は過去を振り返り、現在を見て、未来を予測する。当ることが多いかもしれない。しかし、それだけなのである。愛は、過去も現在も見ない。未来だけをみる。未来に希望をもって、可能性を信じるのである。『イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた』(マタイ9:2)。そして、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた(マタイ9:6どれだけの人がイエス様と出会い、生きる希望と永遠のいのち得て人生を歩み出しだであろうか。