2013年2月9日土曜日

地の塩、世の光

聖書の中に「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界(世)の光です」(matt 5:13-15)という言葉ある。あの有名な山上の垂訓の中の一説である。もう垂訓なんて云わないのかな? その後に各々の効能なりが書かれているから熱心なキリスト者は「我は地の塩、世の光にならん」と頑張っている。あるキリスト者は我関せずと我が道を行く、問われても「だから何」と問い返されるのが関の山である。

キリスト者とは「イエスをキリスト」と告白するものであり、更に云えば
  「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、
    次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
   また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(1cor 15: 3-5
パウロの告白を「我が告白」とする者である。
キリスト者であることも地の塩、世の光であることも働きではなく立場である。塩気をなくしてもキリスト者ではないと云えない。光を失ってもキリスト者でなくなったとは云えない。多くのキリスト者は、「キリスト者=、地の塩=、世の光=こうでなければ」という意識が強いのではないだろうか。だからそれに見合わないとキリスト者であることにX点をしてしまう。サルもそのような捉え方を根底でしているから解らないでもないが考えてみれば主が「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界(世)の光です」と云われたことを否定しているといえる。主が語られたことを否定しているということは不遜であるし非信仰的である。それは「ガンバリズム」の成される業であろうか。

この世は定まっている時はない。絶えず変化している。その一点を見て結論付けるのは間違った結論に導く可能性がある。不変なのは「神の言」だけである。
塩気をなくした」と思っても永遠ではない。一過性のものと捉えたい。主が「あなたは「地の塩です。世の光ですと云われた事は不変である。なぜなら自分のうちに塩も光ももっていない。主がそのように宣告し、その源は主御自身のうちにある。そして、
 「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、」matt:12:20
と云われた。我らは芯にすぎない。主が油を注いで燃えるのである。しかし、油のコックは我らの手の内にある(通り良き管として)。暗闇の中に太陽の光は必要ない。ほの暗き光で十分である。
最後に
     いつも喜んでいなさい。
   絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはなりません。
預言をないがしろにしてはいけません。
しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
悪はどんな悪でも避けなさい。
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

1thess 5:16-24)