2013年3月9日土曜日

一枚のプリント ひとりの宣教師のこと (続き)

他人のものを無断で転載するのは著作権?プライバシー?に違反するか分からないが半世紀近くも過ぎており、余りスポットライトを浴びることもなかったように思われるひとりの宣教師のことが書かれているので紹介がてらブラインドタッチの練習を兼ねて本人の了解無しで転載する。

 クオ   バディス
QUO VADIUS (何処へ行くのか)

               ○坂○穂

年賀状が来て、電話がかかってきた。沼田の英人ターナーさんからである。いつの間にかロンドンから帰って来ていたらしい。是非会いたいと云う。
約束の日、彼は我が家にやって来た。ボロ自動車を運転し、細君同伴でーー一寸太ったか。久し振りである。何回目かの久し振りである。戦争中ジャワで会って、戦後は大阪で会って、沼田で会ってーー、あれから何年であろう。
ジャワで会った時、彼は戦時俘虜であった。戦後の大阪では、英国系大会社の幹部社員であった。
苛烈な戦争を超えて、お互いに不思議な再会を喜び合ったものである。昭和二十六年であった。
彼は収容所時代のことを感謝し、お陰でほんとうのキリスト者になる事が出来たと語った。
ーー収容所では、礼拝堂の建設はしたが、ついぞキリストについて語った事はなかったが?
ーーいや、貴方々と交代した朝鮮の義勇軍の中に、鉄本さんと云う人がいて、その人の感化であると云う。その鉄本さんは鉄砲を担ぎ乍ら、賛美歌を唄って歩いた、そして神を説いた。三年以上俘虜生活を続け、終戦も間近い頃、苦しみ抜いた揚句、自らも遂に神を発見したと彼は語った。恩人たる鉄本さんの行方は今も不明であると云う。
昼間は会社勤め、夜は伝道に従事して忙しい。近く結婚すると、美しいフィアンセの写真も見せた。
 沼田で会った時は、既に一切を捨て去り、完全な伝道者になっていた。いかなる教会にも属さない、すべて聖書によると云う。
結婚して家庭を持ち、もう子供が四人もあった。裏の土地を売って、聖書館を建てたいと土地の測量をしていた。昼食はインスタント・ラーメンとクコのお茶だけのお粗末なお食事であった。
その後、英国から手紙が来た。何に行ったのか知らない。じき帰ると云って来たが二年程も英国にいた。そしていつか又沼田へ舞い戻っていたのであった。
積もる話を交わして我が家に一泊し、翌日、案内がてら塩嶺峠まで見送った。晴れて風の強い日であった。八ヶ岳が厳しく、冬の寒空を突き上げていた。松本を経て長野へと、大きく手を振って彼は走り去った。
 バスを待つ間、峠の売店をひやかすと、中風のおやじが、オロチョン族直伝の朝鮮人参液の秘法を話してくれた。おやじも若かりし頃、大興安嶺のどこかをうろついていたらしい。人参液には、彼の青春が秘められているのかもしれない。人間の運命不思議である。ターナーさんは、すべて神の意志であると云う。南方での彼との不思議な邂逅も神の導きであろうか。ーーその夜のことは忘れる事ができない。三十数年昔のあの夜のことを。(続く)