2013年3月9日土曜日

一枚のプリント ひとりの宣教師のこと (続々)

夕暮れ近く、尚も俘虜の員数のことで云い合っている副官と私をせきたてて、収容所長たる東海林部隊の大尉は、歓送迎会を開催した。昭和十七年春、ジャワ島タンジョンプリオク第一俘虜収容所の一室である。
その日、山本中尉と私は、収容所引継ぎのために先発として、バタビアの伊原兵站司令部よりやって来たのであった。
会する者は、収容所長の大尉以下幹部数名及び山本中尉と私、これに俘虜の幹部佐官級の英人数名計十五名位。
テーブルには押収のビールを林立させ、手製の料理を並べたてて、大尉の挨拶、乾杯で宴会は始まった。じっとしていても汗が滲み出るような南国の夜である。ビールが五臓六腑に沁み渡る。飢えていた俘虜連中は、殊に嬉しそうにグィッグィッと飲み乾す。
忽ちのうちに大さわぎとなった。日本軍が、「万朶の桜か襟の色」と軍歌をどなれば、英軍も亦歌う。
チッベラリーだけはわかったが、あとは全然わからない。手拍子よろしく足を踏み鳴らし、テーブルを叩いたり、そのうち酔っ払って勝手にわめき散らす。日英語入り乱れてである。彼我酩酊、こうなれば敵も見方もない。日本軍は勝ち続けているが、英軍も、なお最后の勝利は我にありと云って譲らぬーー、が現実はこの収容所でも一人二人と斃死して行く、いつ死ぬのやら、ましていつ帰れるのやら。日本軍は豪州を目指して意気尚旺んであるが、果たしてこれもどうなる事やら。
第一線歴戦の東海林部隊の面々はこれで任務終了。故国への凱旋ときめこんで有頂天である。飲んだり、唄ったり、わめいたり、肩を叩いたり、頬をすり寄せたり、殊に外人は大仰である。
 いい加減酔っ払って、一寸小便に立った。帰ってみると、いつの間にか更紗のサロンも清々しい細腰窈窕たるジャワ美人が二人、大尉の両側に侍っている。大尉は悠然と肘掛け椅子に腰を下ろして… … …
が何とこれは、いつの間にやら上着やズボンは云うに及ばず 褌 まで取り払って、誠に一糸まとわぬ見事なスッパダカになっている。やせて陽にやけた赤銅色の肌は歴戦の後を思わせるが、股間がだらり… … …と珍妙である。殊に美人との対比に於いて。
そのうち大尉は立ち上がってダンスをやろうと云い出した。早速「俺がお手本を示す。」と、私の所に来て相手をしろと云う。私が断ると今度は六尺豊かな英軍中佐をつかまえて始めたものの、まるでぶら下がってるような格好になった。おまけに股間がブラブラする。奇妙ともなんとも云いようがない。英人連中は益々興にのって囃立て乍ら、これも適当にダンスを始める。矢張りお手のものである。えらい騒ぎとなった。
 先程から私の横で、何やら口論していた日本軍の炊事伍長と兵器軍曹が、猛然と取組み合いとなった。潮時を見て何とか伍長を引き離した。私は重要な炊事関係の申し送りが終わっていないのが気にっていた。小男の伍長をせき立てると「よし、これから皆に紹介しよう」と先に立った。可成り酔っている。
真っ暗な収容所の真中に、真四角の奇怪な建物がっている。これをとり巻いて、幾つともない焚火が不気味に焔を上げている。一日中半切れのドラム缶の釜でメシを炊いているのである。かまども半切れのドラム缶である。まだ夕食の配給が終わらぬらしい。ただでさえ暑いのに、この焚火で炊事場の中はむれかえるようだ。
伍長の号令で、炊事要員の俘虜がズラリと一列に並んだ。二十数名、全員パンツ一つである。薄汚い。伍長は交代者として私を紹介した。この時、ターナーさんが登場した。通訳をしてくれたのである。
 さて、お別れの乾杯と云うのであろう。伍長はビールを運び込ませ、各人に一本宛分配した。ところが、飢えているのだから無理もないが、渡し終えるや否やガブリと王冠を噛みあけて、グィッとラッパ飲みする者が幾人か出た。虫の居所が悪かった。伍長の怒声が飛んだ。「バカヤロウ! 飲めとも云わんに!」ツカツカと出て行った伍長は、今渡したばかりのビール瓶を先頭から引手繰ると足下へ叩きつけた。そして次から次へと引手繰っては叩きつけて行った。止めたが聞かばこそ、余程疳にさわったらしい。先程の酒と喧嘩が手伝って荒い。忽ち幾人かが足に負傷してしまった。折角の別れの盃も糠よろこび、何の事やらアッケにとられて情けない顔をして佇んでいる俘虜を尻目に、私を促して伍長は炊事場を出た。「クソッタレメ!。」伍長は何故か腹の虫がおさまらぬらしい。
 翌日、伍長は炊事関係の仕事を申し送ってくれた。スッカリ凱旋気分で、戦争みやげの鰐皮の財布やバンド・ライターなどを見せびらかした。同時に英軍ランス・コーポラル(伍長勤務上等兵)ターナーさんを正式に紹介して、助手とするように推薦した。
その日から彼との付合いが始まった。糧秣兼衛生兼営繕係の私と柳沢上等兵の助手と云うわけである。
彼は開戦時、シンガポールに商社マンとして勤めていたが、急進撃の日本軍に追われて、炎々たる重油タンクの猛火の中をジャワに逃げ、ジャワ陥落と共に日本軍の俘虜となったのであった。英人としては小柄で、人懐こく感じのいい青年で、私どもは彼を大変に重宝した。
 色々な事があった。俘虜三千六百何名の相手は、ベラボウに忙しかった。日の出から日没迄、熱帯の太陽に焼かれ乍ら真っ黒になって約半年一緒に駆け回った。やがて併し交代転進の日が来た。彼は自分のシガレット・ケースに、《○坂》と漢字を彫り込んで贈ってくれた。名残り惜しみつつ、「何処へ行くのか?。」《多分豪州へ、シドニーでラング君(俘虜の一人、医科大学生)のマザーに会ったら彼のことを伝えよう。」
当時の日本軍はまだ勝利の美酒に酔いしれていた。それから三年後には、敗戦で身分が顛倒しようなどとは夢想だにしなかった。まして、生きて故国でターナーさんと再会しようなどとは、誠に神ならぬ身の知る由もなかったのである。これをターナーさんは神の導きであると云う。然りとすれば、かの裸踊りの大尉や、みやげを見せびらかしてはしゃいだ気の短い炊事伍長ら東海林部隊の勇士達も凱旋はおろか、やがてガダルカナルの露と消える運命を辿ったのであるが、これも亦、神の導き給うところであったのであろうか。又かの俘虜達も、泰緬鉄道其他各地の強制労働にかり立てられて、生きて故国の土を踏み得た者は幾人あったのであろうか。神の意志とは果たして何であろうか。(続く)