2013年3月29日金曜日

戸の外に立って叩く

教会の戸を外から叩いているイエス様、ラオデキヤの教会がどのような教会であるかが何となくわかる。叱責のみのサルデスとラオデキヤの教会、ラオデキヤは現代の教会を示しているとよくいわれ、駄目な教会、駄目な信者の代表のように言われる。確かにサルは富んではいないが後は該当するから耳が痛い。それに「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙 3:15-16)と言われると更に身が縮んでしまう。

「冷たいか熱いか」は信仰的にと教えられてきた。サルは熱くはなれないがさりとて冷たくにもなれない。どっちつかずのなまぬるさが好きではないが居心地が良いのでつい、なまぬるい湯に浸かって居心地の良さに煮沸されても出れないでしまったかえるを連想してしまう。フランシスコ会聖書研究所の聖書では「冷たいか熱いかの対比ではなく、冷たいか熱いかとなまぬるいの対比であると、「当時ラオデキヤの近くには水源地がなく、遠方からひかれてくる水が、生ぬるかったので、」と書いている。確かに言われてみれば暑い時には冷たい水を寒い時には熱いお湯が人を癒してくれる。信仰的にとも頷けるがそうすると水の効能が偏ってしまう。或いは水そのものに触れてはいないのだろうか。

教会の中心である主が教会の外にいるということが如何に異常であるかがわかる。しかし個人として見ると結構あるのではないかなと個人的には思っている。日常の出来事が時には第一になり、結構、主は隅っこに置かれていたり、下手すると外に追い出している現実がある。人間である以上、プライドがある以上、大なり小なり避けて通れない。たとえ忠実に仕えている牧師や集会の責任者であっても本当に信者に仕えられるかと問いば否であろう。神ではないから求めることは酷である。

暑い時の冷たい水、寒い時の熱いお湯、どちらも心地よいものであるが得てして熱い時に熱い湯、寒い時に冷たい水、傷口に塩という知恵のない事をしまいがちになる。これは知恵のない故に許されるとしても主が我が心の扉の戸を叩いている時があることを意識しなければならないなぁと思っている。主はこんな教会(個人)でも戸を開けさいすれば中に入ってきて共に食事をしてくださる。しかし、戸を叩いているのに気がつかないという問題だある。精々心の扉を薄くしてすぐ気がつくようにしないと。