2013年6月28日金曜日

祈るということ

今、家内の身内の事で弁護士に入ってもらって解決をお願いしている。九分九厘まで進んでいるが後一厘でも終わってはいない。もう少し時間がかかるようだ。しかし、目途が立ったといえるかもしれない。それ故感謝している。振り返ってみるとそこに何らかの道筋が見えてくる。道筋が見えると結果がどうなるかは別にしてもある種の安心感を与えてくれる。

今回は直接利害はないがそれでも道筋が見えるまでは気持ちの上で右往左往してしまった。というよりフリーズしてしまうのである。誰でもそうであるかもしれないが先の見えないことって不安に駆られるものである。祈りながらこちらの願いとみころころを探り求め、最悪のことを受け入れられるかと自問している姿を見せられる。そして信仰とは何であろうかと問いかけている。信仰については、ヘブルと書11章に信仰の勇者?が列記されている。しかしそこに至るまでは心の葛藤があったのではないだろうか。機械の選別機のように右に左にと選り分けていけるものではないであろう。結果として選んだとしか思えない。勿論それが神のお心だと信じての話である。ヨセフは、父ヤコブが自分の息子を祝福するのに弟を祝福したことを不満に思っていた。言われて「あぁそうですか」と答えなかったと思う。最終的には受け入れたであろうし、結果的にもそのようになった。

祈りは信仰の有り様をあからさまにしてくれる。そういう意味で我が内に信仰ありやと思ってしまう。「からし種ほどの信仰」はないが「彼は、いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すことない」と言われて、今も生かされている。くすぶる燈心でも闇夜では結構な灯りになる。そのような形で世の光、地の塩として生かされていければ幸いである。