2013年8月16日金曜日

概観を終えて

先日、メリル・C・テニイの新約聖書概観の「初代教会の諸問題」をパソコンにうつし終えた。「福音書」から始まって、「教会の誕生と推移」の中にある「初代教会の記録」を終え、次の「初代教会の諸問題」が終わった。概観には他の部分もあるがこれでジエンド。いま少しづつ変換違いをチェックしている。引用箇所を確認しながらやっていると遅々として進まない。それに買ってある本が幾つかあるのでそれを読んだりしているので更にである。まぁ復習する意味も兼ねているので急がないでやっている。「福音書」と「初代教会の記録」は終えたのだがもう一度チェックしようと思っている。

信仰生活は長いが聖書は受け売りで知識は勿論実もほとんどでない。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(heb: 6: 1)とあるがまだ初歩を後にするわけにはいかないのである。まして「成熟を目ざして」は論外。お恥ずかしいなんて言葉も出ない。初心に帰って、垢を落とし、「イエス入門」を読んで、スタートである。

「意地悪ばあさん的」発想だが今日のキリスト教界の諸問題はタイトル通りで初期の頃から現代に至るまで変わらないのに驚く、時代は変わっても人の本質は変わっていないということだろうか。
逆に初代教会の問題点を含めて諸々のものを見ていくと答えが見出せるかもしれない。イエス様がどこにあっても中心である。それならブレても戻ることが出来る。それと自分の中にもあるが「主を喜び賛美する」といっても自分の教会の中だけで他の教会の信者と共に喜び賛美できないような固さがある。我が集まりには二つあって、共に交わろうとする姿勢は少ない。ある意味で共有できないということだ。何か大切ものが欠落しているような気がしてならない。