2013年8月23日金曜日

平和の道を知らない

今日は朝から曇り空で午後からは雨になった。夜になっても降ったりやんだりしている。お陰で暑い夏は一服の感があり、暑い夏も一区切りかと思わされている。東京辺りはゲリラ豪雨?で大変のようだがこちらは一息ついている。光に変えて、ついあちらこちらとアクセスしているがそれも一段落して、今ブログを書いている。

メールやブログを書く時は、元々そして今もだが文章を書くのが苦手なので時間がある時でないと書けない。携帯は短い文章でいいのだが逆に変換が面倒なのでこれも苦手である。手紙を含めて文とつくものは苦手である。だからブログなどを書いている。多くのブログは何かを発信しているように見受けるがサルは読める文章を纏める文章をの願いで書いているが簡単ではない。


今週前半は珍しく何かと用があって時間を取れなかったが漸く凌ぎやすい天気もあって時間が取れるようになった。今日の凌ぎやすい一日に、もう猛暑も踏ん張れなくなったかのなとの思いに少しほっとしているとこの8月を振り返ってみたくなった。8月は広島、長崎の原爆投下の記念日があり,その後の終戦記念日がある。そしてお盆があって、何かと区切りのつく月ではないかなと思う。気候だけでなく、暑くなったり冷静になったりしないといけない季節でもあるのかもしれない。

原発事故以来、放射能の問題がクローズアップされている。福島の原発の惨憺たる姿を見ていると事故の解決を思考しているというより国民に何かやっていますよとアピールしているに過ぎないのではないかと素人なりに考えてしまう。根本的ではない。或いは手立てがないのかと思ってしまう。こんな危険なものを安全ですと国も電事連も国民を騙していた事のツケの大きさを思う。こういう危険もありますよと国民に伝えていれば電力会社も国民も心構えは大分違うと思うのだが。それとそのような危険なものを輸出しようとしている事自体信じられない。「トイレのない高級マンション」誰が住むだろうか。汚物を垂れ流して、処理の方法が確立していないなんて唖然とするばかりである。

広島、長崎、終戦の記念日の式典はTVのニュ-スでチラッと観るだけだった。政治家の言葉だけの中身のない文章は聞くだけ無駄である。好き嫌いは別にしてもアメリカの大統領の演説のうまさに感心してしまう。聞くものに訴えかけてくる。それが受け入れられるか否かは別にしても。政治家に限らず日本人はその辺が下手である。そして8月は靖国の問題がある。何故あそこだけに祀らなければならないのか、中国本土,台湾,朝鮮半島の人たちの中には日本人として戦った人もあろうにそれが差別されていることもあるようだ。細かい事情は分からないがどこかメリハリがはっきりしていない。国のために命を奉げたと政治家は言うが奉げたわけではない。命を奪われたのである。命を奪って、年に一回靖国に行って事終われリではまさに英霊は浮かばれないであろう。そのような事が起きない為に政治家として何かしてる?何かしているとしても本質のものではないであろう。

根本にあるのは「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」(rom 3:18)。人は何を恐れるかによってその人の生き方が決まる。クリスチャン、ノンクリスチャンに関係なく単純である。色々と言動を通して平和を希求しているようでも「彼らは平和の道を知らない」( rom 3:17)。と言えるかもしれない。イエス様の生き方が「平和の道」を具現している。それは美しくも力強くもない。イザヤ書五三章を通して具現された。基督者もこの道は好まない。しかしここにしかないように思える。お前はと問われた今は答えられない。いつか答えられたらと願っている。