2013年8月8日木曜日

ある本を読み終えて、考えたこと

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の冒頭に「大学二年の七月から、翌年のの一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。」の文章を読んでどういう展開になるのだろうと思うと同時に「つくる」とは好対照な状況であるのに何か共感を覚えた。読み進んでいくうちにそれは消えていったが。

同じ年代にサルも同じ様な事を考えていた。当時、オートバイに乗っていて、これで転倒したら多分死ぬだろうと、半分期待しながら乗っていた。その頃はヘルメットは必須ではなかったから頭を打ったら多分駄目になっていただろう。しかし、何度も大きな事故を起こしてもかすり傷一つも負わなかった。あるときは故障で停まっているスバルの軽に追突して、宙返りしながら車の前に尻餅をついたことがあった。前輪は駄目になったがお尻を少し痛めただけだった。人間のからだはこんなにもよく飛ぶのかなと感心した事を半世紀経った今でもよく覚えている。何度か事故を起こして、「俺は死ねない」生きる算段をしなくてはと思った。そんな時にカトリックのラジオ放送を知り、ある時駅前で一枚のチラシが外人が配っていたので興味半分貰ったらこれがキリスト教のチラシだった。生きがいを求めての信仰だった。産後の肥立ちは至って悪くて今もそれを引きずっている。大人になれないキリスト者なのである。

「色彩を持たない…」の言葉を「つくる」の姿を見て、生活はある種の優雅さがあって、どちらかというと同世代からうらやましい生活をしている設定だが彼には名前だけでなく、いい意味でも悪い意味でも確かに色がない。男としてのギラットしたものもナヨットしたものも、それは年上の恋人という設定もそして彼女に促されて行動している事もそれを裏付けているような気がする。それは友達としてはいいかもしれないが夫としてはふさわしくないというかうまくいかないような予感を与えている。だからか明日彼女に会うという日で終わっている。「彼の巡礼の年」とあるがこの巡礼は終わっていないし、彼の生き方を変えない限り、巡礼は続くけなければならないだろう。リッチなように見える生活が更に色のない「つくる」を浮かび上がらせている。