2013年9月7日土曜日

読後感

「福音の再発見」を読み終えた。活字も大きく平易な言葉で訳されているがサルには簡単に読めない本である。福音という言葉に疑問はないけれど福音という言葉はもっと幅の広いものではないかなと漠然と思っていたことと天国にという言葉が強調されて、救いが全てであるかのように語られていることに多少疑問を持っていたのとサブタイトルに「なぜ、多くの若いキリスト者が、今日、教会を去ってしまうのか?」のタイトルにも惹かれて買った。しかし、これは勤めても長続きしない息子のことで悩んでいた時、「若者はなぜ3年でやめていくのか」多分こんなタイトルの本があって買ったことがあった。読んでみたら能力のある若者が会社の旧態依然としたやり方に不満をもって辞めていくことだった。息子と対極にあるのでこれは違うと思った。去っていく信者を思い浮かべて、少し心当たりを感じる。これは「福音」理解と違うかもしれないが。

書かれているのはアメリカであり、著者は新約の聖書学者である。大学で学生に聖書を講義している。聖書を知り尽くしている方である。そこから今日の「福音」理解に疑問を呈している事はそれなりに意味があることかもしれない。

高校生の時に信仰を持ち、教会のありようはサルが生まれ育った教会と同じ様な形態をしているようだ。そこで経験していることが今日の「福音」理解につながっているようだ。サルが生まれ育った教会は牧師制を取っていないというよりそれに否定的である。神学なども否定的ではないのかな?
指摘されている救いが強調されている福音主義の教会である。福音主義の教会からも異端視されているのかな?コチコチの原理主義なのかもしれない。

信じるだけでなくキリストの弟子としていく伝道が必要であるとの指摘はまさにそうであろう。産後の肥立の悪いサルは逆説的な意味で頷ける。そのことを思うと以前いた教会が大きくなったきっかけは、教会関係の宣教師ではなく、ナビゲーター関係の宣教師だった。彼は教会のやり方を踏襲しながら形だけのやり方に疑問を呈し、少しづつ変えていった。独身であった所為か若い学生や社会人と生活を共にして、若者を育てていった。また喫茶店やレストランで食事をしながらマンツーマンで勉強会をやったりしていた。サルは食事をして交わるくらいだった。勉強したり何するには硬すぎるからこのくらいが精々だった。今教会の責任を負っている責任者の何人かは彼が若い時に育てた人たちである。知人は家を新築した時、日本に来た時に使うために部屋を用意していた。彼がアメリカに帰ってから日本に来た時にある国会議員から教会に電話があった。彼も弟子のようである。彼は多くの人に信頼と尊敬を受けていた。生きて働く信仰が他者を生かすのだろう。

人間完璧ではない。カトリックからプロテスタントそれをプロテストしたと言われるわがグループ、だからと言って物事が解決したわけではない。問題は相変わらずあるのである。そこにあるのは人間の肉の問題が解決していないからである。牧師や指導者は真に謙遜でない。そんな中に集う信者は問題を指導者に仰ぎ、それを解決の糸口とする。○○はこう言ったという風に、聖書から言えと言えたくなる。前にも書いたが高橋三郎先生は信者に対して、自分たちが立っている信仰の自負を戒め、今ある信仰はプロテスタントの信仰、カトリックの信仰から受け継いできたものであることを忘れないようにそのようなことを言われていた。確信が強ければ強いほどこの危険性はある。サルが出来ているわけではないし寧ろ下の下に存在している者であるが。