2013年9月7日土曜日

良きサマリヤ人

イエス様の譬話は分かりやすいというより単純であり、聞き様によっては結構皮肉的である。しかし、
「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです(matt:13:13)」
とあるように結構理解されなかったようである。律法学者はあからさまに自分たちのことを言っていることがわかったみたいだ。それといざ実行するとなると至難なのである。ここがイエス様のイエス様たる所以かと変な所で感心している。
サルにとって神学とか学とつくものとは全く縁がないから聖書をそのまま読んでいる。そして、こういうことをやっている。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです(2pet: 1:20
牧師のみならずまともなキリスト者ならあきれるであろうことを実にまともなようにやっている。集まっても数人、兄弟は三人だから月一で聖書の話をしなければならない。信者でない方もいるので福音になったり学びになったり両方だったりと中途半端になることは多々である。
そんな中で、月に一回東京からM伝道者がファミリーで、その時に若い兄姉も一緒に来られるので総勢15-6名からになる。何時もは午前中だけだがその時は午後もあり、あぁこれが集会だと実感する。まさに至福の集会である。そして、
彼はいたんだを折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまではmatt:12:20。この言葉の通りで、折れそうな消えそうな信仰に励まし恵みを頂く、故に至福なのである。奉仕のない者でも朝から晩まで(少し大袈裟)しっかりスケジュールのある集会にいた時は不平タラタラだったが現金なものである。「いい加減が着物を着ている」サルではあるが。

そんな中で15日に話す。今回は「良きサマリヤ人のたとえ」からと少しづつ準備している。ここは何回も聞いた所であるが二つばかり気付かされた。面倒な事にかかわりたくないという見方をすれば祭司やレビ人はまさにそうである。しかし、裸で倒れて半死半生の様だったら彼らは神殿の務めに差し支えるのではないだろうか。もし死んでいたらレビ記や申命記に死体にふれたら穢れると書いてある。もしそうすると神殿の務めは務まらない。彼らは同情心がないからではなく、大切な神の神殿の務めを優先したに過ぎない。考えてみればこんな事は今日でもある。個人を守るか全体を守るか、そしていつも個は後回しになっている。社会もそして教会もという感じを受ける。サマリヤ人を褒めるということは自分を批判している事だ。ナタンに叱責されたダビデのように自分のことはわからないのである。人には色々肩書きがあって、それで自分を束縛している。サマリヤ人はそんなものはなかったようだ。死人かもしれないがもし生きていたらと介抱したのだろう。彼に拘るものは何もない。同じ様に罪人の所に行って「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言われても頓着なく彼らと共に食事をし、飲み回っていたイエス様も何も拘るものはなかった。