2013年10月25日金曜日

「細川ガラシャ婦人」 三浦綾子著

義姉の家の整理を手伝っていたら処分する本の中にこの本があった。名前と明智光秀の娘であることくらいはは知っていたがそれ以上は知らないのと、何かで読んだ中で光秀は世に言われるような人ではなく、むしろ信長に問題ありのようなことを記憶していたので読んでみようと処分の中から持ってきた。

歴史を知らないサルにとって戦国の信長、秀吉、家康と続く流れを少し垣間見ることが出来た。読み終えて幾つかのことを感じた。まず作者がクリスチャンであること、ノンフィクションでありながら多分身びいき的にフィクションが入っているだろうなということである。以前にペテロ岐部のことを書いた「パンくずを拾って: ペトロ岐部」中で触れたが遠藤周作の「銃と十字架」にもそのことを感じた。同じペテロ岐部を扱った松永吾一氏の方が寄り史実的かなと、もちろんその辺の歴史的な知識は皆無であるから感覚的なものである。遠藤周作氏は同じカトリックという立場がより身びいき的に書かれたのかなと思っている。しかし極端に身びいきとは思っていない。中立からちょっと右くらい?
三浦綾子さんはプロテスタントであるが「玉子」を純粋に同じ信仰者として、そして同じ女性としての目線で書いているような気がする。歴史家が書かれたらまた違っているのだろうなとも思った。図書館のリストを見たら「細川がラシャ」の本が幾つかあったので2冊ばかり予約した。また違ったものが見えるかもしれない。

予約した本にどのように書いているかわからないが極端な言い方をすると光秀が善、信長が悪のパターンが割りと鮮明だったような気がする。ちょっと単純か(サルのレベルはこれくらいのもの)、今までのイメージがあったからかもしれない。これも以前書いた「 「鎖国」を読んで」和辻哲郎氏の信長の評価はいい。秀吉や家康が駄目なこともあるのかもしれない。どちらにしても人はある面しか見えないもの「・・・象を撫する」である。

キリシタン禁制となっていく中で、そこに人と時代の流れが微妙に絡まっていることを感じた。今日でもそうだが優れた宣教師は今も人々(一般人を含めて)にその信仰と霊性が語り継がれている。逆に目に見える形で華々しく活動している某国の宣教師?は色々問題を起こしているようだ。それも裁判沙汰にも、形は違ってもこういうことである。それと前にも書いたが当時のキリシタンは今日のキリスト者と少し違うのではないだろうかと思う。命がけの信仰であり、当時は諏訪大社がある因習の比ではないだろう。そこを喜んで信じていくのであるからすごいと思う。鎖国前の日本人は鎖国によって矮小化されていない日本人であるのかもしれない。明治初期までキリシタン禁制を敷き、天皇を現人神にして、天皇制を台無しにしてしまった人たちと比べ、何か人格と人格が触れ合って、キリスト者になっていくそんな姿をキリシタンの人たちとダブル。聖書を手にすることはなかったのだろうから宣教師のことばを神のことばとして捉え、迫害の中に真実と誠実を持って実践して行ったのだろう。



1cor: 8: 1
次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。