2013年11月18日月曜日

この道の者

この間、使9:2から「この道の者」から話をした。イエス様を主と仰ぐ群れは、まだユダヤ教の異端?の一分派と見做されていた頃でキリスト者と呼ばれるようになるのはその後のことである(11:26)。5:13には「ほかの人々は、一人もこの交わりに加わろうとしなかったが、(14節では「主を信じる者は男も女もますます増えて・・・」とあるが)その人々は彼らを尊敬していた」と書かれている。すべてとは言わないが今日のキリスト者に対しても見られることではないだろうか。それはある面で高いものが求められているということでもあるかもしれない。この道は普通の道ではないのであろう。

ルカ10:30-27に「よきサマリヤ人のたとえ話」がある。ここから話をしたこともあり、また何度か聞くことがある有名な箇所である。この間話をしたときは祭司やれビ人は自分とダブるようなことを言いい、サマリヤ人にはなれないと言ったように覚えている。「この道の者」を思い巡らしているとき、「ある人」すなわち半殺しにあった人の立場にたって考えていないことに気づかされた。サルが誰かのために何かをしようとするとき、多くは自分の立場で助けようとする。まさに落語の「二十四孝」の八五郎?その者である。

「この道の者」であれば、「ある人」、すなわち半殺しにあった人の立場に立つことができなければやってはいけないような気がする。それはまさに「あなたのためにやってあげてます」になる。それは善であっても偽善ではないだろうか。何かをしてあげたいと思うウズウズする腕をじっと縛って、その人と一つになって初めてできる。サルはそんな人になりたい。