2013年11月14日木曜日

教会の麗しさ

松本にある集会は7月と11月の祝日を利用して学び会を行っている。近いということもあって案内をいただき、他集会との交わりや学びに参加する機会が殆どない集会なので貴重な交わりと学びの機会なのである。7月は経堂のM伝道者、11月は佐久のN伝道者と決まっている。経堂集会にはK兄姉の二人の子供さん(姉弟)が集っていて、既に二人とも結婚されていて良き家庭を築き、集会の奉仕にと励んでいる。ご両親には言えないが(最近は言っているかな?)きつい冗談も言える間柄でもある。長谷川町子さんの「いじわるばあさん」ではないが顔と口の悪いのは先刻承知済みで納得している所為もあるのかもしれない(Mちゃん、Tくんアリガト)。

この4日にはN伝道者のお話を聞くことができた。「教会の麗しさ」というタイトルで、午前がエペソ5:1-2からキリストの「香り」について、午後は1テモテ3:15から「霊的な力」の源といっていいのか教会は「真理の柱、土台」について語られ味わい深い学びだった。
香りは砕かれなければ香りを放つことが出来ない。イザヤ53章、57:15、66:2を引用されて、イエス様の砕かれた姿をまた私たちは砕かれなければキリストの麗しさに預かれないことを教えられる。

午後は法隆寺の土台と柱について宮大工の方のお話を例に話され、これも味わい深いものがあった。教会はイエス様がなされた業によってもたらされた。思い巡らすとただアーメンと言わざるを得ない。お話を聞く前に丁度教会の歴史を見ていた。それは惨憺たるものである。神は何でと思うが選ばれたイスラエルの民も然りである。イスラエルの民も教会も目覆おうものがあるが神はまた別の見方がある。それを学びを通して少し見ることができた。

メモも取らずに聖書の箇所を開いて聖書を解きほぐすように話され、例話もたくさん用いて、小学生もいる所為かわかりやすく話されるのにも感心する。エチオピアの宦官のようなサルにとって、みことばの解き明かしを聞けることは感謝である。

食事や交わりの時、兄姉の間を歩いてお茶を注ぎ自分の席に座ることのなく奉仕しているJ宣教師。思わず「一つ質問があります。姉妹はいつ休みますか」と姉妹は苦笑い?しながら笑顔を返してくれた。実によく気がつき、交わりのときのケーキも彼女が焼いてくれる。いつもおいしく頂いている。今回初めて少し話をすることができたがあまり表立ってやることは好きではないそうだ。でも福音のためなら苦手なことでも喜んでするそんな感じを受けた。まさに「イエス様がすべて」他に魅力を感じないそんな思いを抱かせえる。集会のみならず住んでいるところでも誰もやらないような掃除を率先してやっているようだ。同じマンションに住んでるという姉妹を紹介してくれた。この時は見えなかったが一人の姉妹も彼女の行動を見て信仰を持たれたようなことを証してくれたことがあった。雲泥の差とは姉妹とサルのことにぴったりである。

釧路キりスト福音教会の山形牧師のブログをお気に入りに入れて読んでいる。ハービーさんで検索したら見つかったブログである。何時だったか帯広キリスト福音教会の40周年記念会に出席したことが書かれてあった。そこでJ宣教師が被り物をして証されたことを記していた。姉妹のことをとても好意的に書いていて、否、姉妹がそう語るにふさわしいからであろう。それに証するということは教会に大いに寄与されたからではないかと思っている。長く宣教師として働き、今も覚えられているということは姉妹の姿を見て頷ける。自慢することを知らないような方だからこんなことを書いたら怒られそうだがまぁ本人は知ることはないであろうから頬かむり。あまり知らなかったが姉妹の人となりを知って尊敬の念を抱く、しかし足元にも及ばないないぁ。同じまな板に載せること自体が傲慢である。サルでもできる反省・・・。

そういえば以前にはニュージーランドから多くの宣教師が北海道で働いていたことを思い出した。釧路も帯広も元は集会関係の集まりであったらしい。北海道は札幌の福音館もそうだし他にもありそうだ。帯広の牧師は神学校を出ていないそうだ。年に一度?集会に来てくれるTファミリー、下諏訪に姉妹の学生時代の友達がいる。お兄さんは牧師をしているがこの方も神学校を出ていない。山形牧師も書いていたが神学校を出ていなければ牧師になれないということではない。でも彼はイギリスの神学校を出ている。諸集会はキリスト教界では小さな集まりだが宣教師を通して色々と繋がりがあるのはうれしいことである。集会は問題点もあるが指向していることは正しいと信じている。色々なことを見せて貰って、我が糧としたいものである。もう先が見えている歳ではあるが。