2014年1月25日土曜日

妥協ということば

キリスト者にとって日曜日は大切な日である。就職するのにまず第一に選ぶのは日曜日が休みであるかどうかである。日曜日勤務はどんなに条件が良くても仕事に就く対象ではない。信者の多くはサラリーマンだから問題はない。しかし少数者であっても日曜日に仕事の人もいる。

五十代前半で失業し、就職が難しくて一年余り失業保険で生活をしていたことがあった。保険も切れて遊べなくなったので余りすすまない建物の設備管理の仕事に就いた。仕事そのものは嫌いではなかったが日曜日が休めないので躊躇していたのである。しかし面接したところは朝勤務と午後勤務があって日曜日は午後勤務にしてもらるというので勤めることにした。電気のわかる人がいなかったので日曜日休むと言えば出来たかもしれなかった。しかしそこまでは言うつもりはなかったから日曜日は礼拝だけになった。丁度集会場が建て替え時にぶつかり、近くの無教会系の学生寮の集会室を午後借りることになって一年以上続いたのだろうか礼拝は午後になったので集会に集いなくなった。仮集会場の時は出席できたのは三回もなかったのではないだろうか。偶に行くと知らない人が何人かいて戸惑ったことがあったくらいだからその時はつらかった。それを今でも引きずっている。そんな状況だから午前中やっている他の集会へと責任者に言ってみたがナシのつぶてであったという事もあったのかもしれない。

集会もマスの世界だから少数者にはどうしょうもない。理想論はいくらで言えるが現実としては難しいことが多々ある。また形が出来上がるとそれを壊すことは勇気とエネルギーがいる。だからある牧師は既存の教会のあり方を避けて、教会堂を持たず集会場を借りて礼拝(牧師の説教のみ)だけでやっている。ある意味で来て礼拝して帰ればいい、奉仕だ交わりだと教会が音頭をとらないようである。これも一つの方法であるがちょっと寂しい気もしないでもない。しかし対極にこのようなものがあるということは一つの問いかけかもしれない。その牧師の弟さんも牧師で極普通の教会の形式を踏襲しているようであるが。

実はいつも読んでいるブログの方が新しい仕事に就くにあたって、日曜日休みを可能な限りにしたことが書かれていた。そこには大きな決断をされたようである。文章の中に厳しい見方をすれば妥協という言葉を使っていた。会堂に住み、責任者の一人でるのだろうから尚気持ちはよくわかる。毎日家でパンを裂いていた初代教会のようであれば問題はないのだろうが日曜日がすべてとなるとそうもいかない。

聖書にないことなのに信仰生活に大きな影響を与える日曜休日はどういうものだろうかと思ってしまう。日曜出勤が妥協と言わざるを得ない原理主義的集団にいるとそれが顕著である。どこからそうなったのと問いかけたくなってしまう。本質でないことが本質的なものになってしまうこの現実はどこから来るのだろうか。こういう視点はどこか欠落しているものがあるかもしれない。日曜日はキリスト者にとって色々問いかけてくれる日でもあるようだ。チョッと大袈裟かな・・・。