2014年1月30日木曜日

整理している中で

召されたO伝道者が集会のために送ってくださった小冊子の中に玉野市の岡田博さんの作られた「二度と戦争のない世を」のタイトルで副題が「悲惨な体験を礎に沖縄から訴える」とあり、「那覇の語り部石原絹子さんの手記」とあった。ブラインドタッチの練習を兼ねて前半を書いてみる。

  私の戦争体験

 それでも妹たちは元気いっぱいだった
 戦争勃発当時、私は小学一年生でした。家族は父母に、三年生の兄、三歳、一歳の六人家族でした。平和で明るい楽しい我が家でした。・・・
 一九四四(昭和十九)年十月十日、那覇の空襲で軍と県民は大変な打撃を被り、戦争の恐ろしさを初めて体験しました。その後、防空後の生活も次第に長くなっていき、幼い妹たちは、暗くて蒸し暑い防空壕の生活が苦痛のようでした。それでも夕方になると爆撃がないので、皆で外へ出て新しい空気を吸い、よく笑い、よく食べ、よく遊び、皆元気いっぱいでした。

 皇軍とは名ばかり、人間が人間でなくなって
 四月一日に上陸した米軍は、その日のうちに東洋一と言われた二つの飛行場を占拠。三日目には細長い沖縄を南北に分断し、一ヶ月足らずで、北部全域を制圧してしまいました。一方、南部の方に下った米軍は、上陸六十日目にして日本軍司令部があった首里城を占拠し、小禄にあった陸軍部隊も壊滅。戦況は日に日に悪化の一途を辿り、ついに米軍に追われる身となってしまいました。
 最後の戦場を南部に決定した皇軍首脳や残存兵、防衛隊、義勇隊、学徒隊、看護隊、そして南部の方へ非難を余儀なくされた避難民・地元住民がごったがえす中、皇軍とは名ばかりの、守るべき地元住民から水や食料を奪い取ったり、住民が方言で話したということで何の証拠もないのにスパイの汚名をかけ、銃殺したりする事態が発生しました。本来なら住民を守るための日本の皇軍が、いざとなると自分のために無力の民を殺害して、恐れを知らない、悪夢としか言いようのない異常なことを平気でやってのけたのでした。
 更に、皇軍は人間としての両親のかけらも失ってしまったのか三歳以下の子供たちは戦争の邪魔になるという理由で、情け容赦なく、殺したのです。まさに人間が人間でなくなる悲惨きわまりない状況の中に、私たち家族もいました。そして、とうとう恐れていた日がやってきたのでした。

 「子供を殺すか、さもなくば出て行け」
 その日は朝から雨が降っていました。夕方近く、突然数人の皇軍兵士が、私たち家族が隠れている防空壕にやってきて、いきなり母を取り囲み、銃口を突きつけて恐ろしい顔でどなりました。「子どもを殺すかさもなくば、ここから出て行け、二つに一つを選べ」と。壕内に殺気が走りました。母はとっくに覚悟を決めていたのか震える声できっぱりといいました。「この大切な子たちをむざむざ日本兵に殺させてどうして生きていられよう、死ぬときは皆一緒に死のう」と言って私たちを抱きしめました。恐ろしさで震えがとまりませんでした。
 母は消火活動のためにやけどを負って一人で歩ける体ではなかったのですが、兄が母を肩車して、私が一歳の妹をおぶり、そして三歳の妹の手を引いて、わずかに残っていた米も取り上げられ、雨の降り注ぐ夜空に追い出されました。それが愛する家族の無念の死出の旅路となりました。

 あたり一面火の海、空は真っ赤に染まって
 防空壕を追われた後、途中、艦砲射撃、火炎放射器、迫撃砲、B29の爆撃にあい、避難民たちが傷つき倒れ死んでゆく中、あたり一面火の海となって、空はどこまでも真っ赤に染まり、硝煙と砂煙が立ちこめる中、死を覚悟している私たちでしたが、恐怖が先に立ち、思わず体が震え、足がすくんでしまいました。道路は避難民たちが死の底に招きいれられるかのごとく、延々と列をなし傷つき倒れ、爆弾の直撃を受け、吹き飛ばされたり、ひき肉のように粉々に引きちぎれた人間の肉が飛んできて顔にこびりついたり、もはや望むべきものもないのに、それでも母に励まされて、日夜休むこともなく、食する事もなく、泥だらけになって安全な居場所を求めて戦場をさ迷いました。途中、残存兵に「摩文仁方面が安全だから行くように」と教えられ、最後の力を振り絞ってやっと摩文仁方面辿りついたのですが、その甲斐もなくたちまち戦火に巻き込まれてしまいました。南部戦線に追い詰められた避難民たちの数は十数万人、残存兵約三万人、追い詰められたときの絶望感が今も鮮明によみがえってきます。

 お母さん、私たちもう死ぬしかないの?
 ここは沖縄の南の果て、数十万の避難民たちの、命の極みでした。すぐ目の前には絶望の海が立ちはだかって、敵艦船が黒山のように接近して、銃口を向けて待ち構えている。空には何十機もの米軍戦闘機が旋回している。背後からは戦車が列をなしてけたたましい音をたてて追ってくる。火炎放射器が火を吹いてくる。思わず母に問いかけた。「お母さん、もう私たち逃げられないの。もう死ぬしかないの?」震えながら母を見つめた。母は真っ黒い汚れた苦しそうな顔で、力なく黙って、うなずいた。頭の中が真っ白になって全身から力が抜けていく。そんな避難民たちの脳裏を一瞬にして駆け抜けていったであろう身も心も凍りつくような、絶体絶命の、死の恐怖が、少しでも伝わってきますでしょうか。

 死人ばかりの中に取り残されて・・・・・
 ここ数キロ司法の避難民、日本軍首脳、残存兵、防衛隊、学徒隊、看護隊が追い詰められ、進むことも引くことも出来ず、次第に追い詰められ包囲され、ここで日本軍の阿修羅のごとき抵抗が行われたのでした。敵艦隊から艦砲射撃が雨のように飛来して炸裂。大地を震わせて耳を劈く爆音と共に、岩肌は削り取られ、地形は一瞬にして跡形もなく無残にに変わり、山河は火と燃えて、必死で逃げ惑う十数万の人々の上に、昼夜爆弾は絶え間なく落下して、民間人も軍人も無差別に死に至らしめたのでした。そこら一体は屍の山となりました。
 どのくらい時間が過ぎたのか知るよしもありませんが、気がついてみると、辺り一面硝煙立ちもめる中、異様な火薬の匂いが充満し頭がふらつき、今までのことが嘘のように不気味なくらい静まりかえっていました。ふと我に返ってみると、一緒にいたはずの母と兄がいません。恐怖におびえながら、妹の手を引いて母と兄を呼べどもどこにも姿がありません。心配して辺りを見回すと、そこら一面死体が転がり重なり合って生きている人は一人もいません。

 死体の山を踏み越えて探した母と兄
 無我夢中で妹の手を引いて、母と兄を早く見つけ出さねばと焦りました。しかし、足元には死体の山です。死体を踏み越えなければ前にも後ろにも動けない。恐怖で震える手で妹の手小しっかり握って死体を踏み越えようとすると、腹がパーンと音を立てて破裂し、腹わたやウミや蛆虫がドロッと流れ出て二人の体にかかります。死者たちに悪いと思いながらも、次々と死体を踏み越えました。紫かかった死体は新しい死体、黄色くてお腹がパンパンに膨れ上がっている死体は古い死体です。
 やっとの思いで母と兄を見つけ出したときには、二人とも岩の下敷きになって腹わたが飛び散り、すでに冷たくなっていました。あまりに無残に変わり果ててしまった母と兄の姿を見たときには、わけもわからない叫び声を出して後ずさりしてしまったことが、脳裏に焼きついて今も走馬灯のごとく思い出され、心の傷がうずきます。
 道路や畑やのに幾多の死体が転がり重なり合い、横たわっている様や、真っ黒に群がるキンバエや蛆虫についばまれている死体、二倍にも三倍にも膨れあがって水たまりにふやけている死体、言葉では言い尽くせない身の毛のよだつようなこの世の地獄をみました。
 これが、日本国首脳が考え出した帝国本土を守らんがための、沖縄県民を巻き込んで「時間を稼ぐ」持久戦でした。

 ふと気づくと、一歳の妹は私の背中で
 死人ばかりの戦場に取り残された私たち三人は、恐怖でなすすべを知らず、ただ体中が震えおののくばかりでした。ふと我に返ってみると、あの防空壕を追われる時におぶっていた一歳の妹がいつの間にか、私の背中で冷たくなっているのです。びっくりして背中から降ろして「ふじ子おきて、おきてちょうだい」と、声の限り何度も揺さぶりお越しのですが、妹は二度と目覚めることはありませんでした。やがて可愛かった妹の頬は紫色に変わり、目や鼻・口・耳から蛆虫が沸き出してきました。私と三歳の妹はこの信じられない光景に絶叫し震えおののきながら、それでも何とかして妹を蛆虫から救おうと無我夢中になって一生懸命に払いのけたのですが、体中から湧き出してくる蛆虫に絶叫してしまいました。それはもう見るも恐ろしく全身逆毛がたって体中がこわばって頭の中が真っ白になってしまいました。

 震いおののくばかり、なすすべもなく
 どこかからともなくハエが飛んできたかと思うと、間もなく米粒よりも小さい白い卵のようなものを産み、黒い糸のようなものがピーンと張ったかと思うと、それが小さい蛆になり、見る見るうちに小指くらい大きくなって、ウヨウヨ重なりへし合いながらさらに大きくなって、何百匹の蛆が妹を食いつぶしていったのです。気がついてみるとそこにいたはずの大切な妹はわずかばかりの黒髪を残し母が縫ってくれた洋服の中で小さな骨になっていました。私たちはもう恐ろしくて妹の遺骨を前にして、戦場の死者たちの霊魂漂う中で恐怖と悲しみの中、頭は真っ白になって妹とふたり抱き合ってワナワナ震えおののくばかりで、なすすべを全く知らず幾日も幾夜が過ぎていきました。
 やがて胸に傷を受けていた妹は、苦しそうな息のしかたから、私にしきりに水を求めるのです。「お姉ちゃんお水ちょうだい。お願いお水をちょうだい」とうわごとのようにしきりに水を求めるのです。しかし、ここは無常にも死者たちの墓場、唇を潤す一滴の水すらありません。「つぎちゃんごめんね。本当にごめんね」と妹の顔をなでてやるのが精一杯でした。妹は私の腕の中で目にいっぱい涙を浮かべて私の顔をジーと見つめて、少しうなずいたかと思うと、私の手を握ったまま静かに眠るようにして、あまりにも短すぎた一生を、こんなにも無残な形で閉じたのでした。

 今度は私が死ぬ番、これでやっと楽になれる
 やがて三歳の妹の顔も紫に変わり、目や鼻・口耳からたくさんの蛆がわき出してきました。身の毛がよだつ思いを必死にこらえて、無知にも有らん限りの力をだして、今度こそ大事な妹を蛆虫から守ってやるのだと、顔中の蛆虫を払い続けたのですが、妹の首やお腹や体中から沸き出してくる蛆虫に、とうとう絶叫して気を失ってしまいました。
 またしても襲いかかる恐怖・絶望・悲しみ。この世の地獄の中で一人取り残された私は、震えがとまらなくなってしまいました。もう精根尽きて果て、泣く力も起き上がる力も亡くなった私は、今度は私が死ぬ番、これで妹たちと一緒に母の待つところへ行ける、早くゆかねば母が待っている、早くゆかねばと思いながら、召された妹たちの間に小さく土にうずくまりました。遠ざかる意識の中で、”これでやっと死ねる、やっと楽になれる、やっと皆に会える”と思うと、死さえも喜びとなって安堵さえ覚えました。

 苦痛と孤独・・・・たった一人生き残って
 どのくらい時間が過ぎたのでしょうか。私は生きてしまったのです。しかも信じられないことに、私たちを殺すために来たはずの”鬼畜米英”の衛生兵の腕の中に助けられていたのです。泣くことさえ忘れた放心状態の私の目に留まったのは、米兵士の胸にゆれる金の十字架でした。十字架は不思議にも私のその後の人生を支え、生きる力、生きる希望を与えてくれました。
 こうして命は助けられたものの、父を失い、母を失い、兄を失い、妹たちを失い、悲しみ、無念さ、恐怖心は去らず、毎晩夢の中で戦争の日々を繰り返され、苦痛と孤独のいばららの人生が始まりました。米軍の病院から収容所に移された私は、どうしても愛する家族の死を受け入れることができず、「本当は家族みなどこかに生きているのではないだろうか。私は悪い夢を見ているのではないだろうか」と思うようになった私は、毎日のように小高い丘に登って、有らん限りの声を出して父母や兄、妹たちの名を叫び続けました。”お父さんどこにいるの私の所に来て、お母さんどこにいるの私を迎えに来て。兄さん私を迎えに来て”呼べども叫べども無情にむなしく木霊ばかりが返ってきて私を容赦なく打ちのめしたのでした。収容所の大人たちはそんな私を見て言いました。「この子はもう駄目かもしれないね。こんなに痩せ細って」と。

 なぜみんな、死ななければならなかったの?
 そんなとき私が生きていることを聞き付けた祖母が早速迎えにきてくれました。私は祖母を見るなり、祖母の胸に張りさけんばかりの悲しみを、無念さを、苦しみを叩きつけました。
 「お父さんはなぜ死なねばならなかったの。どんな悪いことをしたの。母さんもなぜ死なねばならなかったの。兄さんは、妹たちは」
 祖母は泣きじゃくる私をしっかり抱き締めて、
 「みな戦争が悪いんだ。戦争さえなければ、皆幸せに暮らせたのに。でも、どんなにつらくても家族のために必ず強く生き抜いていかねばならない」
 と幾度も説いてくれました。

まだ続くのですがこの小冊子の裏ページには、

  人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるのかは
お前に告げられている
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと
これである。
(旧約聖書 ミカ書6章8節)

些細なことから戦争は始まる。70年前にこのようなことが起こっても為政者には何の説得力もないだろう。彼らは例え戦争に負けてもこのような場にはいないのだから・・・・
イエス様のこの言葉が大きな重みを持ってくる。


luke:23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。