2014年2月21日金曜日

準備する中で

集会では月一位の間隔で30分前後の短い話しをしているがいつも何を話すかで苦労している。みっちりやれば長くなるし短くなれば簡単すぎるしこれも難しい。しかし話す箇所を決めて聖書をじっくり見ているとまた違った形で見えることがある。

今回ルカの福音書の中からザアカイと役人(マタイは青年)を同じ金持ちという視点で話そうと思っている。黒崎幸吉注解新約聖書を参考に進めているがこれは口語訳、塚本訳、前田訳、新共同訳それに英語版NIVが載っているから比較しながら見ることができて便利である。ただし英語はわからないのでパス。

luke 19: 2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
luke 19: 9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの
       子なのですから。
luke 18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。
luke 18:24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしい         ことでしょう。
luke 18:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」そして「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」とある。金持ちが救われるのは不可能のように書かれている。

正しいかどうかはわからないが同じ金持ちでも物質的なものと精神的なものがあるのではないだろうかと思っている。どちらにしても他の人が持っていないものを自分が持っているということが言えるのではないだろうか。またマタイは「心の貧しい者は幸いです」とあり、ルカは只単に「貧しい者は幸いです」とある。「貧しい」とは人にはあっても自分には無いものがあるから貧しいと感じるのではないだろうか。

パウロはコリント信者に向けて、こう言っている。
1cor: 4: 8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さま
       になっています。
信仰的に問題のあるコリントの信者をこのように皮肉っているし金持ちの農夫に対して主は



luke 12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。
と死を告げている。
とすると「豊かさ」、「貧しさ」は自分に対してと神に対してとでは逆転している。神の前に貧しいと思っている人は神にその欠けているものを補ってもらって実は豊かであり、自分は豊かだと思う人は神によって満たされる必要は無いと思っているから神の前においては貧しい存在なのであろう。富むとは主によってしかあり得ない。心の貧しい者が富めるのは主によってである。