2014年3月11日火曜日

二種類の悲しみ

3.11、震災から三年たった。今日は各局特番を組んで放送している。あの時は遠い信州にいて揺れさい気が付かなかった。ニュースで漁港の荷上場に少しづつ水かさが上がってくるのを見て、それほどでもないのかなと思ったらどのくらい時間がたっていただろうか次に見たときは田畑?を燎原の火のごとくすべてをなぎ倒し、川を逆流して行く様に唖然としてしまった。そしてあの結果である。

昨日のニュースで石巻の大川小学校の亡くなられた児童23名の遺族の方が訴訟を起こされた。哀しいニュースであるがそれよりも行方不明を含め児童74名、教職員10名が亡くなられたということがもっと悲しい。助かる命がと思うと胸が詰まる。
群大の片田教授の講演会を市のホールで聴く、先生が指導していた釜石の小学校は全員無事、整然と避難する子ら、その姿に安閑としていた大人たちがつられて避難して助かった。高学年の子供たちが低学年の子供たちをサポートしながらの避難である。先生が提唱している「想定にとらわれるな、最善を尽くせ、率先避難者たれ」の避難三原則を彼らは実行した。大川小学校でもこのような指導を受けていたらと思うと残念である。

傍観者のようなサルでも悲しみを覚えるから亡くなられた遺族の悲しみに加えて何倍も何十倍の悲しみがある。しかしTVの特集を見ていてこの悲しみに二種類の悲しみがあることがわかった。それは被災者でも震災と原発の二つである。そして原発には憤りをも感じる。今あるいのちが脅かされている。それを守ろうとする姿は遠い信州からでは見えない。住み慣れた緑や豊かな大地を目の前にしてその土地を捨てなければならない住民の苦悩はいかばかりであろうか。悠々自適に暮らせるほどの保証をしてくればまだどこか納得するかもしれない。しかし住民は離れ難い地を捨てざるを得ず国は住民を捨てている図式を見る。現代の足尾鉱毒事件である。国も政治家も何一つ変わっていない。「戦後レジュームからの脱却」?「戦前から引きずっているものからの脱却」では?神が与えたチャンスを顧みることのなかったイスラエルの民とダブる。サルのできるのは「い・の・り」、東北の人たちの忍耐と頑張りに励まされながら。