2014年3月6日木曜日

福翁自伝

慶応義塾の創設者で一万円札の顔くらいの認識しかない福沢諭吉の自伝である福翁自伝なるものを読んだ。自伝であるから生い立ちに始まって11の表題があってその表題ごとに短く区切った小見出しがあり、短くて読みやすく理解しやすい。小見出しごとに名前とか出来事とかの説明が小見出しの最後に書かれているからわかりやすい。一般的には本の最後のほうにまとめて書かれているから一々面倒だがこれはすぐ読めるからすこぶる便利である。

口述筆記(後で本人が加筆訂正)のようである。彼を全く知らなかったから彼の人となりを知ることができた。明治時代に活躍したキリスト者もそうだったが彼も下級武士の出身でその悲哀を経験しているようである。お父さんを早く亡くし、お兄さんも若くして亡くなっている。そしてお母さんは身分制度のはっきりしている時代に分け隔てなく付き合っていたようで中津では女の乞食の虱を取ってあげていたそうだ虱をつぶすのを手伝わされたが嫌でたまらなかったと書いている。でもこのお母さんの姿は彼の生き方に大きな影響を与えたのではないだろうか。小さいときは腕白らしくと言っても兄弟げんかはしたことがない。それに本を読み始めたのは14-5歳の頃とか周りに比べたらだいぶ遅い。中学生が小学生の中で勉強しているようでちょっと気恥ずかしかったようだ。しかし意味を理解するのには長けていたようで時には先生を超えていることもあったとか。

長崎遊学、大阪修業、緒方洪庵塾でお世話になり、そして江戸へ蘭学から英学へと変わっていく、幕府初めての使節、咸臨丸でのアメリカへ人がしり込みするような状況の中でその随員にと頼み込んで同行いる。後に使節として依頼されて渡欧もしている。この時には400両貰って100両をお母さんにあげて親孝行をした。アメリカでもヨーロッパでも大量の本を買ってきている。色々誘いがあった政界には興味を示さず。もし政界で活躍したら大きな働きをしたと思う。一市井人として生きた人だが政財界をはじめ皇族の中にも多くの知己を得ている。

幕末から明治の中に生きて身の危険を感じるときもあったようでその中で我が道を行くことは余程の識見がないとできないことだろう。体制と人が変わっても攘夷という狭い考えに固執した時の政治を見ると豊臣、徳川が日本をダメしたその延長にいるような気がする。戦後世界に目を向けた日本をまた内向きの日本にしようとしている姿を見ると残念というより悲しい。日本の繁栄を願っての行動だろうがそれは滅びの世界に踏み出す一歩である。彼のような広い視野に立って政治なりをやっていたら日本もだいぶ変わったかもしれない。でもいざやるとなると周りは動かず思うようにできないかもしれない。在野だから言えることもある。そのような世界に見切りをつけて人を育てることにまい進したのは正解かもしれない。新潟の郊外に敬和学園というキリスト教主義の高校がある。初代校長の太田俊雄さんが大阪でアメリカ軍が学校を軍に徴用されていたとき雇った通訳が下手でその期間通訳をしたそうだ。そのとき高い給料を払うから通訳を依頼されたが高くても子供の教育が大切だと断った。彼らは教育はそんなにいいのかなぁと言われたとか本に書いている。それと戦後キリスト者で学校を起こした人がいる。教育って最も意義のあるものかもしれない。その対極にいるサルから見てもそう思う。東大の戦後初の学長であった南原繁も教育に情熱を注いだ一人でもあるようだ。教育基本法に深く関わった人ではないだろうか。

信州では小諸義塾の木村熊二、研成義塾の井口喜源治が有名だが期間は短かった。そういう意味で今も続いている福沢の慶應義塾はすごいなぁと思った。読んでいて福沢諭吉の偉大さを知り、一万円札で続いている顔の意味が分かるような気がした。学問のすすめも買ってあるがもう少し暇なになったら読もうどんな印象を受けるか楽しみでもある。







 




彼の業績や遺志が今の大学にどのように生かされているか